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「次の世代を代表するクァルテット」、ベルチャ弦楽四重奏団(Belcea Quartet)を聴く(@紀尾井ホール)。

2010年03月11日 02:44

ベルチャ弦楽四重奏団(Belcea Quartet)の演奏を聴いてきた(紀尾井ホール、3月10日)。
紀尾井ホールのウェブサイトに見られる気合の入ったコピーはこうだ。

?アマデウス弦楽四重奏団、アルバン・ベルク四重奏団、その「王位」を継承するカルテット?

おぉっ、なんともイカツイ。
ちなみにプロフィールはこちら
 http://www.pacific-concert.co.jp/CL02_2/detail.php?no=097
 (株式会社パシフィック・コンサート・マネジメントのアーティストページ)
「次の世代を代表するクァルテット」とも言われているようだ。


シューベルト:弦楽四重奏曲第12番ハ短調「四重奏断章」
バルトーク:弦楽四重奏曲第1番
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第7番ヘ長調「ラズモフスキー第1番」


まずは音の全てをコントロールするテクニックに驚嘆。
しかし技巧に走るのではなく、全てはフレーズを、個々の音とその連関をを掘り下げるため、語弊を恐れずに言えば徹底したニュアンスを追求するために捧げられていた。

聴き手の聴覚を研ぎ澄ますかのようなピアノ、使い分けられる多彩な音色、統制のとれたアグレッシヴさ、強奏は物理的には決して大きくはないが質的にとても雄弁なフォルテを奏でる。結果的にダイナミクスレンジは広い。

加えてアンサンブルの精度が極めて高い!
まるで往年の優れたジャズ奏者のインタープレイを観ているようなスリリングな音楽にも感じられる。


個人的には、思い入れのあるシューベルトで一気に引き込まれ、バルトークの第1番では彼らの持つ内省的な傾向とも相まって非常に完成度の高い、濃密な音楽に圧倒された。「ラズモフスキー第1番」では、曲の違った一面を垣間見れたようにも思う。第3楽章のピチカートなどは、このクァルテットでないと出せないと言うくらいに繊細な表現だった。あとはこのクァルテットに付け加える要素があるなら(望むかどうかは別として)「凄み」のような部分くらいかと思う。

それにしてもバルトークの弦楽四重奏曲はまさに20世紀の古典でもあり、しかし時代がどれだけ経ても決して紐解かれない神秘性を保ち続けるのだろう。「抽象度が圧倒的に高い」とはなるほどの弁。

EMIから既発のようだが、バルトークの作品はこのクァルテットの魅力を存分に引き出していると思う。ドゥビュッシー(既発)やシベリウスの弦楽四重奏曲なども聴いてみたい。シベリウスなら作品4とか。瑞々しい青春の音楽に何処か土の匂いと陰影などを混ぜた演奏を聴かせてくれるに違いない。と夢想。



今日(11日)も紀尾井ホールにてコンサートが開かれる。
プログラムは、
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第6番変ロ長調
バルトーク:弦楽四重奏曲第3番
シューベルト:弦楽四重奏曲第14番ニ短調「死と乙女」

うわ?鉄板だと思います。残席はあると思うので興味のある方は絶対に行ってみるべし。
お問い合わせは→
パシフィック・コンサート・マネジメント 03-3552-3831
紀尾井ホールチケットセンター 03-3237-0061

詳細は→http://www.pacific-concert.co.jp/CL02/detail.php?no=700






"Belcea Quartet - Bartok String Quartets " - EMI Classics


[image/air_ : 細越一平]

高橋悠治の音楽@トーキョーワンダーサイト
純粋な音楽。クルターク夫妻と菊地裕美さんのリサイタル(ARTE Live Web)から。
優れた音楽は優れた音楽家の優れた演奏によってこそ優れた音楽たりえる、湯浅譲二バースデーコンサート@東京オペラシティ。
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グレン・グールド『パルティータ変ロ長調BWV825』、その演奏の作法とエスキス、ギフト。

2010年02月27日 03:16

さっきのエントリだとほんとに救いがなくなるのでこちらを再掲。
久しぶりにグールドを取り出すと、やはり聴きたくなるのはこの『パルティータ』だ。


先日、グレン・グールドによる『平均律クラヴィーア』について少し触れたので、それならば『パルティータ』についても少々。



BWV825は、グールドのキャリアの中でも最高なもののひとつだろう。
この猫背のピアニストは、当時の録音技術の向上(とその追求)は、 「明晰性、即時性、そしてまさに触れんばかりの近接感のあるサウンド」を聴き手が求めるようになったからであると述べている(それは2世代前なら考えられなかったと付け加えて)。

グールドはその演奏に対してと同様に、楽器と録音に関しても偏執的なまでのこだわりを持っていた。
グールドの遺した録音が、当時の水平軸では異質なサウンドであるのは、当時の常識を覆すような近距離に置かれたマイクにあったと言われている。グールドの<実験工房>と化していたスタジオからは、グールドの言うところの<近接感>を聴くことができる。

矢野顕子が言うところの、「時間も空間も無きもののごとく、彼はピアノを弾きに来るのだから。/たとえそれが私達のためでなくとも。」という言葉は、グールドの音楽を得てして言い当てている。


パルティータ変ロ長調』の録音(あえて<演奏>ではなく)は、グールドの特色をそのまま切り取ったような感覚がある。
まるで<ピアニスティック>でないピアノの音色とアクション。ピアノが失ったものは艶のある音色やサスティン・ペダルを用いた幅広いフレージング、ダイナミクスレンジ等々。ジーグで弾かれる高音部など、甲高く咳き込んだセキレイのようだ。

それでは<ピアニスティック>なるものを削ぎ取ったあとに聴こえてくるものは? 

グールドは、ピアノピアノであるためのアイデンティティを奪い去る。
流麗なヴィルトゥオロジーなど微塵もなく、弧線の代わりに、点描の景色が広がる。グールドの好んだ<乾いた(セッコ)>な音の連なりは、従属ではなく連続としての音楽の時間を奏でる。音に階級などなく、全ての音に存在する意味がある、その文脈でグールドは真に平等主義者のエヴァンゲリストだ。
パタパタとも揶揄される恐ろしく正確な指先のアクションに反応するためには、ピアノの打鍵システムそのものに手を加える必要があった。音の厚みを犠牲にしても、グールドの指先の運動の紡ぐ思想に、ピアノは答える必要があった。

特に録音を始めた初期の演奏では概ね早め(もしくは高速)のテンポが設定されている。それは、メロディック・ルバートや仰々しいフォルテとピアノ、感傷的に<聴かせる>ピアニズム(非常に語弊に富んだ言葉だが、未だに散見することができる)といった奏者によるヴィルトゥオロジーを粉砕した。グールドは実際のところ、音楽から演奏者の名前すら掻き消そうとしていたのだろう。

作品から楽器の特性を消し、時代観念に彩られた演奏の慣習を消し、演奏する者の存在を消す。
グールドの演奏は<個性的>と称されることが多いが、グールドは個性を表出することなど微塵も望んでいなかった。グールドが創りたかったのは、音楽が音楽になりえる瞬間、すなわち音楽が創造される瞬間の記録である。演奏という行為が作曲と創作という行為に<貼りついている>。グールドの音楽のエスキスはそこにある。


BWV825に戻ろう。
メヌエットで聴こえる音楽は、まさに音楽が生まれている瞬間。
希望に満ちた静謐さが、敬虔さにも変わりえるような瞬間。
終わりの部分など、ふと、バッハがこの曲を始めて弾いたときの、微笑みにみちた半ば即興のような繰り返しにも聴こえないだろうか。

そして、パルティータの始まり、その長三和音は、まるでこの世のものではないような純粋さと美しさに満ちていながら、限りなくゼロに近い。まるで透明に響くその音色は、あまねき者に届くギフトのように。


[image/air_ : 細越一平]

関連した記事
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽1 
 創造の過程に グレン・グールドの音楽17
 

高橋悠治の音楽@トーキョーワンダーサイト

2009年11月15日 15:42

現代日本の作曲家と出会う
第4回 高橋悠治の音楽
「風の中のロウソクのように不安定に」

@トーキョーワンダーサイト渋谷に行ってきた。

あるいは、と高橋悠治は言う。
風の中のロウソクのように不安定に、という言葉は言い換えれば、細い塀の上をフラフラ歩く、でも良いのだ、と。いつかは右か左か、どちらかに落ちるかもわからないし、それでも良いのだ、と。



「わたしは特に今回のような若い方と何かをするということがほとんどなかった」、と高橋は言い、こう続ける。「というより私が何かをしても、若い人は来ない」。
それはある意味日本での現象、と前置きしつつ、高橋は自身の歴史観に照らして、この状況を説明する。
1930年、大恐慌と資本主義経済の危機、そして国家の介入。1968年の世界的な学生運動の波が国家により粉砕され飲み込まれる、そしてヴェトナムではアメリカが泥沼に飲み込まれる。1989年、ベルリンの壁が崩壊、そのときには国家は既に、非常に巧妙なやり口で、権力を浸透させるシステムを運用していた。権力は多様化を取り込むようにして、管理を容易にする。
個は個として連続性を持たず、歴史は無力化する。多様化はそんな中で立ち上がる様子もあるが、音楽は依然として立ち遅れている。



濃密な言葉に満ちた2時間半のなかで高橋が伝えたかったことは、「ひとりよがりになるな」ということかもしれない。

高橋は同じ詩に同じ編成で作曲した桑原ゆうのことはまったく意に介していないようにも思えたが、非常に多様式の今回のプログラムに一貫しているのは、富山妙子の木版のスライド、絵本や藤井貞和の詩、そしてバッハのパルティータに素材を求めた作品を並べているということ。
安直な意味での「共同作業」を拒否し(それはもしかしたら当初のTWSの企画自身にも向けられているかもしれない)、しかし現代の風潮や若い世代の芸術家(本当の意味での)に、彼なりのアンチテーゼを、強烈にしかし静かに与えているようにも見えた。



1曲目「光州1980年5月 倒れた者への祈祷」(演奏:大須賀かおり、スライド操作:高橋悠治)。
これは富山妙子の木版と高橋雄二の音楽による「ゲルニカ」である。高橋悠治の音楽は理知的に過ぎるという向きには、ぜひこの作品に触れていただきたい。僕は聴きながら涙を抑えることができなかった。理由は知らない。圧倒的な何かに突き動かされるような稀有な体験だった。

(追記予定)

[image/air_ : 細越一平]

音楽のしあわせ。

2009年10月29日 01:29

下北沢<Com.Cafe 音倉>のキャンドルナイト・ライブに行ってきました。
 →コンサートのススメ(渡瀬さんコンサート情報)

出演は以下の皆さん。

 渡瀬英彦(フルート) 
 玉村三幸(フルート)
 橋爪恵一(クラリネット)
 松里俊明(ファゴット)
 さのさとし(トロンボーン)
 宮澤 等(チェロ)

いつものメンバーです。

会場となった<Com.Cafe 音倉>は、庄野真代さんが主宰するNPO法人<国境なき楽団>が手作りでこしらえたカフェ。なんとなくあったかい雰囲気があります。

1029.jpg

演奏は前半はバロック中心、後半はビートルズの『レディ・マドンナ』にはじまり、はじひろしさんのトリオやさのさんの「手笛」レクチャー、そしてさのさとしさんの自作で締め、というプログラム。
気心知れた仲間のリラックスした音楽が心地よし。

会場はステージ以外キャンドルで照らされましたが、渡瀬さんがふと口にした「バッハとかはみんなこんな感じの中で演奏したのかな」という言葉になるほどと思う。


日常でまじまじと炎を見つめるというのは、今はなかなかないですね。
思わずじっと見つめてしまいました。すると、それはなんと不思議な質感や揺らめきをするものか。ちょっと感動しました。

それにしても、音楽家が楽しそうに音楽している姿を観ると、こちらまで幸せな気分になります。肩肘張ったコンサートもいいけれど、音楽の本質は様々な形をとって現われる、そんなことを改めて感じた夜でした。


[image/air_ : 細越一平]


マーラーのメモリアルイヤーを前に。ノイマン=ゲヴァントハウスを聴く。

2009年10月16日 01:09

マーラーの『交響曲第5番』を聴く。
指揮はヴァーツラフ・ノイマン。演奏は後に伝説的な名演を残すチェコ・フィルではなく、ライプティヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団。

http://ml.naxos.jp/album/0185502BC 
↑ナクソスにて全曲視聴できます。

1860年に生まれ、1911年に没したマーラーにとって、来るべき次の2年間はメモリアルイヤーが続く。もともとオーケストラの試金石のような楽曲であるから、2009-2011年のシーズンは軒並み世界中のオーケストラがマーラー・ツィクルスを行うようだ。

これまでも、マーラーの5番の名演奏の録音がたくさん残されている。ワルター、バーンスタイン、カラヤン、近年ではラトル=ベルリンの就任記念の、「再解釈」とも言われたものや、アバド=ルツェルンの生気あふれる音楽、また直近にリリースされたマゼール=ニューヨークのツィクルス盤は、マゼールという指揮者は「ほんとはけっこう素晴らしかった」と思わせるのにあまりある演奏だった(失礼!)。

そんな面々の演奏と比べると、ノイマン=ゲヴァントハウスの演奏は、何処か地味で飾り気もなく、オーケストラの力量もそこまでではないだろう。しかし、そのざらついたような肌感覚の音色や抑制されたヴィブラート、そしてスコアに忠実に、節度を保った演奏は、逆に質実剛健である。

ノイマンはその演奏で、彼らの演奏ではなくマーラーの音楽の内実に光をあてているのだ。
感性ではなく、構成に重きを置くことで、逆説的に聴き手の心にマーラーの音楽と言葉を伝えるのだ。


これからのメモリアルイヤーの前に、今一度聴き直されてしかるべき音楽である。

[image/air_ : 細越一平]
http://chikap.blogspot.com/2009/10/blog-post_15.htmlより転載

 「種」を蒔く。

ドゥダメルは救世主となり得るか? 

2009年10月10日 08:30

グスターポ・ドゥダメルはクラシックの救世主となり得るか。

ついに、ドゥダメルの、ロサンゼルスでのシーズンがスタートした。
Dudamel Leads L.A. Philharmonic In Historic Concert : NPR

先日のハリウッドボウルでの彼の就任記念コンサートは、インターネットで全世界に映像が配信されたこともあり(そのド派手な演出には度肝を抜かれた)話題となった。Twitter界隈もかなり賑わっていた。その会場には18000人ほどの聴衆が訪れたという。その中にはもちろんこれまでクラシックを聴いたこともない人もたくさんいて、それをしてこのベレズエラからやってきた若者の業績は、"It's a dream job."と評されているという。

それにはプロモーションによるところも大きい。このプレシーズンの間、ロサンゼルスのオーケストラの周到な準備とプロモーション活動は非常に活発だった。FacebookやTwitterでは、「ようこそグスターポ!」のキャンペーンが展開され、ロサンゼルスを挙げての歓待ムードを演出していた。稀代のタレントを擁してのマーケティングは確実に功を奏したのである。


10月8日、ついに彼の1年目のレギュラーシーズンが幕を開けた。
曲目はジョン・アダムスの"City Noir"(委嘱新作)とマーラーの交響曲第1番「巨人」。
これもARTE Live web で映像が配信された他、上記のリンクからは録音を聴くことができる(ARTEでももうまもなくアーカイブ化されるだろう) 。

演奏を聴いての簡単な感想は、「現代オーケストラのための音楽の存在意義を、その作品を演奏することでさらに見いだせなくしている」アダムスは別としても、正直凡庸な演奏というのが正直なところ。これはフランス国立との演奏の時にも感じたことだが、ドゥダメルのバトンがオーケストラをコントロールしているとは言いがたく、音の出やアンサンブルの雑さが目立つ。テンポは独特だが音楽が生きているとは思えず、逆にいびつさのようなものを感じてしまう。それは先日の「第9」でも同様。

SBYOと聴かせたチャイコフスキーやヒナステラのようには、ベートーヴェンやマーラーは行かないのだろう。若きスターはここからが勝負となるはずだ。期待したい。

And people who have never been to a classical concert in their lives are now talking about Beethoven. Not bad for his first week on the job.

そうNPRの記事は結んでいる。ドゥダメルに対しての様々な期待以上の音楽を、ぜひ聴かせてほしい。


[image/air_ : 細越一平]

 グスターボ・ドゥダメル、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ

純粋な音楽。クルターグ夫妻と菊地裕美さんのリサイタル(ARTE Live Web)から。

2009年09月04日 00:37

ARTE Live Webから。
プロヴァンス音楽祭より、クルターグ夫妻と菊地裕美さんのリサイタル。
※コメントでご指摘頂いたように表記を訂正しました。(2015/1/27)

Récital Gyorgy et Marta Kurtag au Festival d'Aix-en-Provence (01:08:01)

30分を超える"HiPartita pour violon solo, op. 43"、繊細でしなやか、それでいてドラスティックな響きの音楽。クルターグ氏より献呈された菊池さんの演奏は、「楽譜に貼りついた」、つまり作曲家とともに音楽を創造しているような音楽。

そして後半は、クルターグ夫妻が、アップライト・ピアノに寄り添いながらの"Extraits de Jatékok (Jeux)et Transcriptions (1975 - work in progress)"。

「誰かのための」、ささやかで、静謐で、親密な音楽。
それは多分に、作曲家でもあり夫でもあるクルターグ氏の、愛する人へのオマージュ(Hommage à M. K.)でもあり、自らの人生の道程と、そこに関わった全ての音楽に対するオマージュなのかもしれない。

以下のようなコメントがあった。強く共感するのでここに引用する。

Sascha, 25/07/2009 00:21
Listening to Kurtag's music played by his wife Marta and himself has been a life changing experience. I hope this video stays here for many to see (more, listen!) to how sensitive and deep one can approach music and communicate so much through it to other people.


アンコールのバッハの連弾では、不覚にも涙がこぼれた。

音楽はこれほどまでにピュアでよい。
アップライトに傅くふたりの背中からは、そんなメッセージが聴こえてきたりもする。


今週末は、ゆっくりと耳を傾けてみてはいかがでしょう。


[image/air_ : 細越一平]

 「現代オーケストラの到達点」、アバド指揮ルツェルン祝祭管弦楽団を聴く(ARTE Live Web)。
 全力で音楽を表現し尽くそうとする、アバド指揮、ルツェルン祝祭管弦楽団の『復活』。

 優れた音楽家(演奏家)のための環境(場)を創るために。

 Morton Feldman: Patterns In A Chromatic Field: Arne Deforce(Vc)大宅裕(P)

カメラータ・トウキョウより、吉松隆作品集/「鳥たちの時代」が再発売。

2009年08月28日 01:16

高校生の時に、都会仙台まで出ていって求めたCDが再発売。


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吉松隆作品集/「鳥たちの時代」



「CDの初出が1991年だから18年前。一番古い録音(チカプ。1982年)は27年前!だ。
これを読んでる「キミ」は生まれていたろうか?」
- (八分音符の憂鬱
と吉松氏は自身のブログで書いている。確かに、変化が時間を追い越していくようなスピードで、多くのことが過ぎ去っていった。何しろ田舎の高校生が、インターネットで世界に繋がるなどとは(それどころかCDや楽譜を注文することすら)考えられなかった時代なのだ。


それでも、21世紀になった今でもこれだけは言える。
このCDに収められた作品は、掛け値なしに傑作だ。

何回聴いたかわからない、レコードのように擦り切れてしまわないのが逆に残念なほどに、ぼくはこのCDから聴こえる吉松隆という作曲家の音楽に惹かれた。


しかしこの「鳥たちの時代」、もしかすると今の時代にこそ(沁み渡るように)響くかもしれない。

「鳥たちの時代」は、まだ羽ばたく前の吉松の音楽であり、未だ光を見出せない不安と焦燥と反骨と気概と、それでいてけっして絶望していない根っからのオポチュニストの作曲家の、青春の音楽であるからだ。



シャンドスの一連のオーケストラ作品で吉松隆を知った方にもぜひお勧めしたい。
シンフォニストを自認する吉松だが、僕は室内楽作品にこそ、その真骨頂がある気がする。


[image/air_ : 細越一平]

 吉松隆さんのブログに思う、魚座の音楽論、ファジーバード・ソナタ。

 白い風景 吉松隆
 朱鷺(トキ)に関するニュースを2つ、吉松隆、「朱鷺に寄せる哀歌」。
 音楽ノート1


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