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創造の過程に グレン・グールドの音楽22

2009年06月23日 22:32


 環境との関わり方という時、グールドが意識していたのはバック・グラウンド・ミュージックの可能性についてである。

 シェーンベルクが、作曲家と聴衆の間に直接的な関係を樹立し、現代音楽に対するはっきりしない点をなくすために立ち上げた<私的演奏協会>は、目的達成のために3つの条件を持っていた。
 それは、<良く研究した明確な演奏>、<何度も繰り返し上演すること>、そして<一般大衆の腐敗作用から遠ざけねばならない>ということである(ライヒ)。

 1918年の状況から、1960年代以降の録音技術を考えると、グールドの録音メディアの利用は、この3つの条件によく当てはまる。
 スタジオ・ワークを駆使した精密な分析と反省によって生み出される演奏、録音メディアの反復聴取性、そしてパッケージングされた録音媒体は変更不可能だ。
 グールドは20世紀の音楽――十二音配列に基づく、一般に聴きづらいと思われている音楽、「コンサート用音楽として出てくれば間違いなくいや」がられるような音楽(GGR)――も、映画のバック・グラウンド・ミュージックや生活の背景としてなら聴かれるはずと考えていた。


 グールドの提唱した<キット>の概念も新たな音楽受容の在り方を示している。それは、あらかじめ何通りかの解釈を施した部分を用意しておいて、それを聴き手に選択させ、その組み合わせで聴き手が望む演奏解釈を組み立てていくという考え方である。


 理論上こうした処理は音楽演奏の再構成に無制限に適応できるだろう。熱心な音楽通が自分のテープの編集者となり、自分自身の理想の演奏を創造する源であるそれぞれの解釈上の好みを、このような技術によって活かすのだ。それを妨げるものなど、実際何もありはしない。**


 作曲家の手を離れた作品に作り手の意思など存在しないとの主張とともに、自らの構造を当て嵌めていったこのピアニストはまた、演奏した者など誰でもよいという素振りをしている。
 実際彼は、誰が演奏したか、その日付けと場所といったドキュメンタリー的なものも余分な事柄に感じていた。

 彼の録音から聞くことができるピアノの、風変わりだけれども透明な音には、作品が音楽として何者にもよらず、凛として屹立している印象がある。
 グールドは演奏者たる彼の諮問すら拭き取ってしまうことを望んでいた。最後に残るべき、聴かれるべきものは音楽だけであると。

 そうであればピアノに寄り添うようにして吹き込まれている、消すことのできなかった彼の声にならない歌は、誰のものでもない彼岸の歌だ。



**GGRより。現在において、このような概念はマルチメディアの一般化とともに現実のものとなりつつある。トラックを聴き手がプログラミングすることで解釈を選ぶことのできるCDや、カデンツァを選択させるCDのパッケージは既に現実のものとなり、インターネットから果ては携帯電話の端末に至るまで、音楽要素を聴き手の好みに合わせてリミックス出来るシステムが存在する。その根底には、スティーヴ・ライヒらによるミニマル・ミュージックの理論の探求、テクノ・ミュージックの隆盛、ヒップホップなど引用(サンプラー)で構成される音楽、またMIDI規格などシステムの均質化といった要素が挙げられよう。



[image/air_ : 細越一平]

 演奏の哲学 第2章 終りまで
 創造の過程に グレン・グールドの音楽21
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創造の過程に グレン・グールドの音楽21

2009年06月23日 01:19


中断を挟みましたので、前出した演奏の哲学 第2章 終りまでのリンク先を参照して頂ければ幸いです。



3 <匿名性の音楽>


 レコーディング・テクノロジーによって、表現を拡張した例で忘れてはならないのが、ヤン・シベリウスの『3つのソナチネ 作品67』と『キュッリッキ 作品41』の録音に用いられた、グールドの言うところの<音響の演出>である。
 彼はスクリャービンの作品で実験した(パッケージングはされなかった)8トラックのサラウンド技術*を、この「控え目な音楽家」(GGPW)に適応させている。

 グールドは80年にジム・エイキンのインタビューに答えて、この<演出>について、「あれは選曲を誤ったと思います。後から考えると、シベリウスにはあの類の音色操作は不必要でした」(エイキン)と吐露しているが、一方シュネーデルは、「この時の録音にあって、音楽は遠ざかろうとする何かであり、人がつかまえたと思っても、どこかへ行ってしまうようななにかである」(シュネーデル)と語っている。

 もちろん現在では音場をシンセサイズするエフェクターのような機材を用いれば、同等以上の効果を期待できるだろうが、8チャンネル・マイクの文字通り<異様な>効果(エフェクト)は――一応グールドはそこに、彼の演奏同様分析に基づいた構造的根拠を与えているが――この一連の北欧フィンランドの作曲家シベリウスの作品が、何処にも立脚していないような、時間・空間すらも無効化、いやそれすらも剥奪された、いわば<署名なし>の状況を聴かせるのだ。


 そのような、<匿名性の音楽>こそが、グールドが求めたものであったのである。
 ピアノからそれ特有の音響を削り取り、楽譜に対してその構造のみを見て取ることで、演奏習慣や伝統の影を剥ぎ取り、対位法という抽象的な構造を拠り所として分析をすることで作品の時代性を薄める――作品の<再創造>を、レコーディングによって具体化する。

 「レコーディングなる媒体は、グールドの美学の本質である、時間にとらわれない音楽、という見方を促進したのである」(GGPW)。

 シュネーデルは問う、「芸術はつねに<奪うという道筋を通って(ペル・ウイア・デ・レウアーレ)>追及されるのだろうか」(シュネーデル)と。
 彼は聴き手の意識を音楽そのものに向かわせるため、演奏者である彼自身の存在すら消え去ればよいと考えていた。
 そういった全ての刻印が消し去られたのち、音楽はやっと自由になれるのだと。

 
 想像的状況においてアイデンティティを示す要素が必然的に無視されるということでもっとも期待できることは、芸術を判定する場合、環境との関わり方が問題となり、もはや伝記的資料や時代設定がそれほど重要な判定でなくなるような風土が認知されることである。(グールド、GGR)



[image/air_ : 細越一平]

関連した記事

2章3節はこちら
 Glenn Gould on recording グレン・グールドの音楽16
 Glenn Gould on recording グレン・グールドの音楽17
 Glenn Gould on recording グレン・グールドの音楽18
 Glenn Gould on recording グレン・グールドの音楽19
 Glenn Gould on recording グレン・グールドの音楽20

2章冒頭はこちら
 演奏の哲学 第2章 グレン・グールドの音楽

 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽1
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽2
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽4
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽3
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽5
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽6
 
 創造の過程に グレン・グールドの音楽7
 創造の過程に グレン・グールドの音楽8
 創造の過程に グレン・グールドの音楽9
 創造の過程に グレン・グールドの音楽10
 創造の過程に グレン・グールドの音楽11
 創造の過程に グレン・グールドの音楽12
 創造の過程に グレン・グールドの音楽13
 創造の過程に グレン・グールドの音楽14
 創造の過程に グレン・グールドの音楽15

演奏の哲学 第2章 終りまで

2009年06月23日 01:10


ながらく更新していなかったグレン・グールドについての論文を、再開しようと思います。
それに先立って、これから(前にも書きましたように)アーカイブの整理を行おうと思いますが(つまりまだ手を付けていないということです)、とりあえずは第2章の分だけ、リンクを置きます。
もしご興味おありの方がいらっしゃいましたら、ご覧ください。

先の章やそれぞれのリンクに関しては後日整備していきたいと思ってます・・・


 演奏の哲学 第2章 グレン・グールドの音楽

 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽1
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽2
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽4
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽3
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽5
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽6
 
 創造の過程に グレン・グールドの音楽7
 創造の過程に グレン・グールドの音楽8
 創造の過程に グレン・グールドの音楽9
 創造の過程に グレン・グールドの音楽10
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 創造の過程に グレン・グールドの音楽13
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 Glenn Gould on recording グレン・グールドの音楽16
 Glenn Gould on recording グレン・グールドの音楽17
 Glenn Gould on recording グレン・グールドの音楽18
 Glenn Gould on recording グレン・グールドの音楽19
 Glenn Gould on recording グレン・グールドの音楽20


[image/air_ : 細越一平]


「演奏の哲学」補足。

2009年04月23日 01:28


先日ある人から、「演奏哲学」という連作は終わったのですか?というメールを頂きました。

ありがとうございます。終わってません(笑)


当初このブログを始めるにあたって、音楽に対する論文をひとつ、メインコンテンツにしようと考えていました。

それが、グレン・グールド(とアーノンクール)の演奏と、音楽に対しての拙稿「演奏哲学」です。


本来は僕の大学の卒業論文で、データがなくなっているので、改めて打ちこんでいます。
単にコピペするのではなく、「打ち直す」という行為によって、自分自身の時間を取り戻す作業をしている感覚があります。脳みそを更新していくような・・・


そういった事情もあり、引用文献の記述(それに関しては、今後まとめて全てを掲載させて頂く予定です)以外はほとんど改変していません。

あくまでも自分の音楽に対しての思考をなぞるような作業です。


近い将来(といってももう三十路ですが)、おそらく6年後くらいだと思いますが、僕は一度集中して学び直す時期が来ると思っています。

それが国内なのか、大学などの研究機関なのか、それとも在野で実地なのかは決めていませんが・・・その時に再度、この論文は書きなおすべきだと思っています。
(もしかしたら終章だけは書き換えるかもしれませんが)

現時点では、そのままにするということが正しい気もしています。


実際ブログを書き始めていくと、様々他に書くことが出てきて(ありがたいことです)、この論文自体が途切れ途切れになってしまい、実際打ちこむのも追い付いていない状況だったりして、読み手無視のような状況ですが、今後アーカイブとしてブログもしくはウェブサイトに格納しておく準備を始めています。
そんな大層なものではないのですが(期待して頂いている方がいたという事実だけでも驚きだったり)。


大層ついででいえば、「演奏哲学」という大見栄の表題を付けていただいたのは、当時の指導主査であった中田光雄教授です。。。


学生のころ、陶酔していたジャンケレヴィッチという哲学家について卒論を書こうと思っていた僕は、中田先生から「実は僕はパリでジャンケレヴィッチが先生だったのだ」との言葉を頂き、逃げだしたくなったことを覚えています。



そして、一見朴訥とした哲学者のような中田先生が、講義でもっともよく使っていた言葉は<気概>というものでした。


僕は決して良い生徒ではありませんでしたが、<気概>という言葉の重みだけは、胸に携えているつもりです。

ありがとうございました。



[image/air_ : 細越一平]

創造の過程に グレン・グールドの音楽20

2009年04月17日 22:37


 グールドのテープ編集への過激な言説(「今日のレコーディングの大部分は、最も短くて20分の1秒、それ以上のさまざまな長さの断片テープを集めたものである」(GGR)云々)は常に議論の的になってきたが、バザーナによれば、「グールドのテープのスプライスは、他のピアニストたちより多いことはなく、スプライスするのは手段であって、ミスタッチを直すことは少なかった」(GGPW、グールド自身や、共演した音楽家、音楽プロデューサー、エンジニアの証言から)という(スプライスとは<接合>といった意味で、テープ動詞をつなぐ録音編集技術)。

 そのような姿勢は、グールドが度々言及している『平均律クラヴィーア第1巻第20番イ短調BWV865』のフーガ録音のエピソードに表れている(GGR)。
 
 この技術的に高難度の音楽で、グールドは8つのテイクを録音した。
 そのなかで6番目と8番目のテイクは技術的には「部分差し替えをひつようとしない」完璧なものであったが、一本調子という欠陥があることが、録音から数週間後の視聴で判明した。
 それぞれ異なるスタイルで演奏していたこの2つのテイクを、グールドは、それが同一なテンポをたまたま持っているという指摘を受けて、スプライスするのだ。
 「いささか威圧的な」6番目のテイクはフーガ冒頭の主題提示および結びの提示に、「6番目と比べて活気のある」8番目のテイクはフーガの中央部のさまざまな転調を伴う場面へといったように、ふたつのテイクからなるひとつのフーガが誕生した。

 グールドはこのエピソードを、こうまとめている。


 このように多様に組み合わさった演奏の仕方を、なぜ事前に練った演奏構想の一部に取り込んでこのフーガの主題に用いることができなかったのか、もちろんわからない。それにしても、このように異なる複数のスタイルが必要なことなど、スタジオ録音中にはっきりすることはまずないだろうし、ましてコンサート会場の諸制約の下で演奏する演奏者にはそんなことはまず思い浮かびそうにない。しかし録音後の、いわば、あと知恵を活かせば、演奏が想像力に押しつけてくるさまざまの制約をひじょうにしばしば乗り越えることができる。(GGR)


 いみじくもグールドは、「レコーディングは、どんなことが音楽の演奏に適切なのかについてのわれわれの考え方を、よかれあしかれ永久に変えてしまうだろう」(GGR)と予言している。

 上のフーガのエピソードはまた、ザ・ビートルズの『ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー』の制作過程とよく似ている。
 ジョン・レノンの自伝的なこの作品もまた、異なるテイクの継ぎはぎ(このときはテンポを合わせるために回転数の調整も行われた、)によって生み出された。
 ビートルズの――そしてプロデューサーのジョージ・マーティンの――もたらしたサウンド・プロデュースは当時ほとんど革命的な出来事だったが、シリアスな音楽の業界では少なくとも公には、制作サイドから演奏に手を入れるということは好ましく思われなかった。
 グールドはザ・ビートルズのことは評価していなかったが、それでも両者のサウンドの考え方には似たところがあった。
 ザ・ビートルズがサウンド・クオリティの面からライブ・コンサートを放棄したことも。



[image/air_ : 細越一平]

創造の過程に グレン・グールドの音楽19

2009年03月20日 12:45

2<take2>


 テクノロジーはまた、コンサートにおいて行われる一回性の演奏に疑問を呈した。

 グールドはその動きの急先鋒であった。
 グールドはコンサートにおける一連の行為を嫌悪すらしていた。
 理由はひとつには先に挙げた競争の原理、つまりは「音楽の問題であるよりむしろ倫理上の問題」(GGR)が作用している。
 そして――もっとも重要なことは――ステージの上では自らの理想とする音楽を完全に表現することができないからであった。

 グールドとルービンシュタインの、平行線を辿るのみの対話は、この点で非常に興味深い(GGR)。
 レコーディング至上主義者のグールドと、ライブ演奏の持つ力を、たとえ録音の際にも疑わないルービンシュタインのスタンスの、どちらが正しいかを、わたしは答えることができない。
 けれども、確かなことは、この雄弁で論理的な才気あふれる若者を前にしたルービンシュタインの困惑と穏やかな語り口は、世代間の軋轢を越えた、いうなれば時代の在り方の差異を示しているということだ。


 そのルービンシュタインとの対話のなかでも使っているのが、<take2>という言葉である。
 つまりは録り直しであり、グールドにとってはテイクを経ることがそのまま創造の可能性を探る旅の記録であった*。
 複数のテイクを編集することでグールドは完全を目指した。
 このようなスタイル――グールドがことさらに強調し、多くの演奏家に改宗を迫った――が、コンサートあるいはそれに準じる録音を第一に考える人びとからの反発を受けた。

 彼らが主張するのが、一回性の演奏の概念、一貫性のそれであった。
 つまりは音楽から流れを疎外してしまうことで、作品が持っている思想のようなものを損なってしまうというのがその言い分であった。
 このことを、グールドは全く意に帰さなかった。
 そもそも、グールドにとって、音楽に思想などというものはなかった。

 彼にとって重要なことは、作品から副次的な要素――習慣であったり、時代背景や伝統による慣用句的表現、そして作曲家から演奏者までも――を切り離し、それが持つ構造を明確にすることのみであったのだ。



*という言葉で有名になった音楽家がもうひとりいる。マイルス・デイビスである。




[image/air_ : 細越一平]


創造の過程に グレン・グールドの音楽18

2009年03月19日 00:01

 グールドは、「ほとんどの人の好みから見ると、マイクが近寄りすぎ、きつすぎ、厳しすぎる」(コット)、5フィートの位置にマイクを据えた(当時のヨーロッパの主流は8?9フィートだった)。

 一般に、マイクの位置が近ければその分だけ楽器の音は裸に近い――残響に乏しい――<ドライ>な音質になるが、グールドのタッチのわずかな表情の変化を捕えるためには必然の選択だった。
 とりわけバッハの録音で、われわれはその<ドライ>な音質を――すぐそばにグールドがいるかのような――聴くことができる。
 特徴的なノン・レガートの響き、楽音のひとつひとつの質感が手に取るように伝わってくるのに加え、まるでスコアを繰りながら聴いているかのように音楽の全体的な形式や骨組み、つまりは構造が示されるのは、残響によって各声部が混じり合わないため、グールドの対位法的な音楽構築もまた明確になっているからである。
 バッハ以外のレパートリーの多くでは、それよりはマイクの位置が遠ざけられた。
 これは、バッハの作品よりはサスティン・ペダルを踏む回数が多いというグールドの奏法と直結するだろう。しかしそれでも、一般に扱われているよりは近かった。


 表現の拡張という点でまず挙げられるのはやはり『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の録音であろう。

 あのめくるめく対位法の応酬は、オーヴァーダビング(多重録音)の技術がなければ生まれなかった。
 「一枚の忠実な写しよりも、ひとつの実現へ向かって長い道を行く」(コット)というクレドのもとに制作されたこの録音は、彼の対位法的な思考を満たすものとなった。

 丘沢静也は、諸井誠の「お遊びの範囲を出ない凡作」という評に反発し、この編曲盤を「グールドの頭脳の叙情を証明、いや照明した名盤である」(丘沢静也「クールな牧歌 グールドのワーグナー」)とする。
 「私は批評家ではない。その他大勢の、単なる消費者だ」と自称する丘沢「グールドの編曲が、音楽の本性にふさわしいかどうか、私の知ったことではない」と留保を入れヴァーグナーの管弦楽の特権的に豊かな響きが聴こえてこないことで「ちょっと欲求不満に」なりながらも、「見晴らしがよく、とてもきれいで、知的で、洗練されている」グールドのヴァーグナーを、「あくまでも幸せで、穏やかで、天国のように平和なのだ」と表現している(丘沢)。
 丘沢のこの言説は、この録音の特徴の一面をよく言い得ている。
 グールドは、このような「新しいかたちの聴き手」を歓迎していた。
 彼らは、音楽が録音メディアによってコンサートホールと一部の愛好者から解放されることで、バック・グラウンド・ミュージックとして「1人の聴き手が数限りなく聴く機会を獲得する」(GGR)人々である。
 
 音楽の自由な拡がり、それがテクノロジーの効用のうちのひとつであった。




[image/air_ : 細越一平]


創造の過程に グレン・グールドの音楽17

2009年03月12日 01:11

1 スタジオ――孤独の可能性と拡がり


 <コンサートは死んだ>という言葉が生んだ議論の渦を飄々とくぐり抜け、グールドはレコーディング・スタジオでの孤独を楽しんだ。
 無思慮な聴衆や劣悪なホール、そして歴史的聴覚の記憶しか持たない批評家に、彼が捧げるものはなかった。
 彼の演奏は音楽にのみ捧げられ、加えるならば作曲家にすら捧げられるものではなかった。
 CBSのある責任者は「あなたのなかで私が好きなのは、これから先あなたがわれわれに何を残してくれるのか、あまりよくわからない点ですね」(モンサンジョン)と述べたという。
 グールド自身にも分かっていたかは疑わしい。
 けれども、彼は目下レコーディングしている最中の音楽について、何が必要であるかは十分に認識していた。


 カナダ放送協会での初のラジオ・コンサートののちに渡された録音盤とともに、「マイクロフォンと恋に落ちた」(GGR)このピアニストを、デニス・ダットは「音楽録音の哲学者」(GGPW)と呼んだ。
 彼はレコーディングのテクノロジーについて、同時代の音楽家なかでは群を抜いて研究していたし、それが音楽の領域に侵入してくるのにも全く抵抗はなかった。
 むしろ、自らの表現、、そして演奏概念を拡張するものとして、テクノロジーを積極的に取り入れようとしていた。


 グールドの表現を発表する場として、レコーディングは最大限に活用された。決してピアノの性能に寄り掛かることなく、ダイナミクス・レンジの繊細な変化や細分化されたアーティキュレーション、微妙なリズムの揺らぎといった極度にコントロールされた表現を正確に伝えるためには、2000人を集めるコンサートホールでの演奏は不可能である。
 そのような状況下で、果たして『パルティータ第1番変ロ長調 BWV797』の初めのあのコード、限り無く静謐な場所からもたらされる変ロ音と変ニ音の長三度は聴こえただろうか? 
 グールドの研ぎ澄まされたピアニッシモは、それでも決して明晰さを失ってはならない性質の音楽だった。

 「明晰性、即時性、そしてまさに触れんばかりの近接感のあるサウンド」、つまり「2世代前なら専門家も手に入れられず大衆も欲しがらなかったような性格のサウンド」を「何よりもまず今日の聴き手は」求めるようになったとグールドは書いているが(GGR)、それはそのまま、グールドが欲した性格のサウンドだった。




[image/air_ : 細越一平]



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