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あなたに ひとつの問いかけを贈る  空爆、去りゆく年に、谷川俊太郎、三善晃、瀬戸内寂聴。

2008年12月31日 17:40

イスラエルのガザ空爆が止まらない。

世界中のあちこちで、不条理な暴力が繰り返されている。


われわれにその暴力を、それに連鎖する悲惨を、止めることはできない。

圧倒的な無力感に襲われる。


 あなたに
 燃えさかる火のイメージを贈る
 火は太陽に生まれ
 原始の暗闇を照らし
 火は長い冬を暖め
 祭りの夏に燃え
 火はあらゆる国々で城を焼き
 聖者と泥棒を火あぶりにし
 火は平和へのたいまつとなり
 戦いへののろしとなり
 火は罪をきよめ
 罪そのものとなり
 火は恐怖であり
 希望であり
 火は燃えさかり
 火は輝く
 ――あなたに
 そのような火のイメージを贈る

 あなたに
 流れやまぬ水のイメージを贈る
 水は葉末の一粒の露に生まれ
 きらりと太陽をとらえ
 水は死にかけたものののどをうるおし
 魚の卵を抱き
 水はせせらぎの歌を歌い
 たゆまずに岩をけずり
 水は子供の笹舟を浮かべ
 次の瞬間その子を溺れさせ
 水は水車をまわしタービンをまわし
 あらゆる汚れたものを呑み空を映し
 水はみなぎりあふれ
 水は岸を破り家々を押し流し
 水はのろいであり
 めぐみであり
 水は流れ
 水は深く地に滲みとおる
 ――あなたに
 そのような水のイメージを贈る

 あなたに
 生きつづける人間のイメージを贈る
 人間は宇宙の虚無のただなかに生まれ
 限りない謎にとりまかれ
 人間は岩に自らの姿を刻み
 遠い地平に憧れ
 人間は互いに傷つけあい殺しあい
 泣きながら美しいものを求め
 人間はどんな小さなことにも驚き
 すぐに退屈し
 人間はつつましい絵を画き
 雷のように歌い叫び
 人間は一瞬であり
 永遠であり
 人間は生き
 人間は心の奥底で愛しつづける
 ――あなたに
 そのような人間のイメージを贈る

 あなたに
 火と水と人間の
 矛盾にみちた未来のイメージを贈る
 あなたに答えは贈らない
 あなたに ひとつの問いかけを贈る

   谷川俊太郎「三つのイメージ」(詩集『魂のいちばんおいしいところ』より)


2008年の最後、ささやかな祈りと共に、三善晃の「三つのイメージ」を聴く。

3image

引用が長いが、上の谷川俊太郎の詩に曲をつけた、三善晃の初演時の言葉。


〈時の一旅人から金沢の皆さんへ〉

 岩城さんに、レジデンス・コンポーザーになってと言われたこと、そうしてこの曲の初演を、金沢のオケと合唱の演奏で金沢の皆さんと親しくなったが、ここには伝統の奥床しさと気品があり、人々は謙虚で、しかも情熱を秘め、なにかを伝えようとする旅人の言葉をしっかりと受け止めてくれる。この土地柄を、私は現代の理想郷のように思う。「何かを伝えようとする」とは、この曲では谷川さんの詩だ。この詩が載っている詩集『魂のいちばんおいしいところ』の初版は、ベルリンの壁が崩壊した1989年の翌年だった。第2次世界大戦後も絶えることのなかった火や水や人間の矛盾は、冷戦構造とともに解かれるかに思われた。それが幻想に過ぎないことを、この詩は「問いかけ」のかたちで告発した。その通りだった。同時多発テロから一年が過ぎようとする今日、火と水と人間の矛盾はますます激しく地表に露呈し続ける。
 私自身が中学1年生だった1945年の終戦時以来、「魂のいちばんつらいところ」をたずさえて音の世界を旅してきた私には、いま、この曲しか人に手渡すものがない。金沢の皆さん。受け止めてください。世界で最初に、皆さんに手渡します。



「火、火、火、火、、、」と始まるその音楽は、児童合唱の多義的な性質を孕んだ印象的な「こえ」とともに、詩の持つ音楽的、詩的性質の意味合い強く、お仕着せではない「創造力」というメッセージの伴侶としての性質が強い。
暴力的だが原初の祝祭を連想させる火、冷徹さと謎、惧れを伴う水、何処か宗教的でいて、アンビヴァレントと矛盾と葛藤を続ける人間。
言葉はひとつひとつが重く、聴き手を貫く。
ガイウス・カシウスの槍のように、または暗闇に差し込む光のように。
「矛盾にみちた未来のイメージ」を、三善はクラスター的に、呻き声のような、悲痛にみちた叫びにも聴こえる音楽で表現する。


われわれは何処から来て、何処に行くのかと誰かが言った。


無機質な声で贈られる「ひとつの問いかけ」。

かすかに、鐘の音が聴こえる。


谷川の詩は、諦めていない。
三善の音楽も、諦めてはいない。


鐘の向こうに聴こえる未来のイメージは、消え入るような、しかし決して消えることのない希望だと信じたい。



オーケストラ・アンサンブル・金沢と金沢県の興味深い取り組みの数々は次の機会に譲る。




 ♪♪♪♪♪♪♪♪




卑近な例で恐縮だが、実家のトイレに「瀬戸内寂聴の日めくり暦」が置いてあった。

12月31日、今年最後の寂聴の言葉を引用して終わろうと思う。

みなさん、良いお年を。全ての物事、全ての出会い、全ての人々、そして音楽に感謝。
世界中の全ての人に、祝福がありますように。




「幸せな時にはありがとう。
 苦しい時には力を下さい。
 淋しい時には聴いて下さい。
 いつも地球のすべての人が
 幸福で平和でありますように。」 






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演奏の哲学 第1章 前提―20世紀、演奏の潮流2

2008年12月31日 13:34

1 自作自演の概念とその変遷

 西洋伝統音楽の置かれている現在の状況が、先の問いに拍車をかけている。
 まず、作曲と演奏という行為の分離・分業が進んだという問題がある。
 作曲と演奏を皆が同時に行えるのであれば、先の問いを発する必要はない。
 何故なら、音楽家は自らの元に浮かんだインスピレーションを、自らの出力を通して具体化すればよいだけであるのだ。演奏は自らに従えばよい。

 過去の、いわゆる〈大作曲家〉を考えてみよう。永遠の神童アマデウス・ウォルフガング・モーツァルト、孤高の楽聖ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、サロンの英雄フレデリック・ショパン…彼らは偉大な作品を遺したのみならず、優れた鍵盤楽器(フォルテピアノ・ピアノ)の演奏家でもあった。
「あの若者(ベートーヴェン)にはサタンが潜んでいるね。あんな風に弾くのは、聴いたことがない。・・・彼は我々が夢見たこともないような難しさとエフェクトとをクラヴィアでやってみせた」(山根銀二『ベートーヴェン研究』)。
 彼らは、同時代人から、作曲家としても演奏者の名声のほうを早く手に入れた。
 同様に、フェリックス・メンデルスゾーン=バルトロディやリヒャルト・ヴァーグナー、そしてリヒャルト・シュトラウスやグスタフ・マーラーといったロマン派の巨人のほとんどは指揮者としての名声をほしいままにしている。
 
 西洋伝統音楽史に君臨する作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハの経歴はまさに、演奏家としてのそれである。ワイマール宮廷楽団のヴァイオリン奏者(1703)、アルンシュタット(1703?1707)・ミュールハウゼン(1707?1708)の教会オルガニスト、ワイマール宮廷のオルガニスト兼コンサートマスター(1708?1717)、ケーテンの宮廷楽長(1717~1723)、そしてライプティヒの聖トーマス教会の音楽監督であるカントール(1723~1750)。
 彼は生涯を通して1000を超える作品を残しながら、演奏者としての力量も相当なものであったことが、コンサートマスター、宮廷楽長、カントールと要職を歴任していたことからも見てとれる。
 また、彼の終の住まいとなったライプチィヒでは、ヨハン・クーナンの後任となった聖トーマス教会の少年合唱団に対し、「最高の音楽を要求し、ヨーロッパ屈指の合唱団へと育て上げた」(聖トーマス教会合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団2000年日本公演から。この演奏会では、バッハの『マタイ受難曲』の初期講BWV244bが演奏された)のみならず、「ライプチィヒ市の音楽監督」として代表的な教区教会の聖トーマス教会と聖ニコライ教会における礼拝音楽の責任を負い、またテレマンの創設したコレギウム・ムジクムの5代目指揮者・演奏者として、世俗音楽=非宗教音楽のコンサートも頻繁に行っていた(バッハの置かれていた政治的・宗教的状況については、ウルリヒ・ジーゲレ『バッハの政治的側面と音楽の位置付け』に興味深い視点がある)。
 武久源造によると、バッハのコレギウムは、おもにツィンマーマンのコーヒー店で冬季には毎週金曜日の夜、夏季には毎週水曜日の夕方にコンサートを開催していた。コレギウムではその他にも特別な行事や名士の表敬用音楽、冠婚葬祭等の機会にも演奏していたというから、その数は膨大なものになる(武久源造『新しい人は新しい音楽をする』)。カントールとして、毎週金・土曜日のモテット、カンタータの上演も果たしていたバッハを、演奏家と呼ばずして何といおうか?
 
 20世紀以降でも、演奏家として活躍した作曲家を挙げることはできる。例えばピアノを弾いたセルゲイ・ラフマニノフやバルトーク・ベーラ、ヴィオラ奏者であったパウル・ヒンデミット、指揮の分野で活躍したイゴール・ストラヴィンスキーやレナード・バーンスタインがそうである。
 特にストラヴィンスキーに関しては、『春の祭典』や『ペトルーシュカ』といった、20世紀の記念碑的作品を残した作曲家であり、また演奏作法においても、強い影響を与えた――彼自身が良き演奏者であったかどうかは別として、思想上で強い影響を与えたのは事実である。
 また――こう言って差し支えなければ――同時代において、作曲と演奏の分野で特筆に値する活躍をしている/してきたのがピエール・ブーレーズである。
 『レポン』を頂点とする彼の作品の評価はまだ定まったものではないが、IRCAM(フランス国立音響研究所)での研究や、ドメーヌ・ミュジカル(すでに解散)、アンサンブル・アンテルコンタンポラン創設と演奏、そして明晰な音楽を生み出す指揮活動。常に言われるように、ブーレーズは獅子のような性格でもって闘い続けている。
 
 けれども、現代、とりわけ20世紀後半において、西洋伝統音楽(いささか語弊があるが)の領域で、自作自演という概念は薄れている。
 その理由のひとつとして、現代に生み出される作品の多くが、複雑なリズムや細分化されたアーティキュレーション、跳梁する音高と極めて特殊な奏法を要求する、技術的に難易度の高いものとなっていることがある*。
 このことで、同時代の音楽いわゆる現代音楽が、極めて専門的な演奏家の領域に押し込められてしまったのは拭い様のない事実である。まさに作曲家の片手間仕事程度の演奏技術では手に余るものが創造され、窮屈なサークルの中でのみ音楽界が催される。
 まして専門的な音楽教育を施され、ヴィルトゥオーゾとなった演奏家ですら、奏することが不可能なほどの作品もしばしば存在する。
 20世紀作品の演奏をレパートリーとするロンドン・シンフォニエッタのメンバーであったアンソニー・ペイも、こう吐露している。

 「現代音楽を演奏すると、技術的にひじょうにむずかしい状況におかれることがしょっちゅうある。複雑なリズムをやれとか、完全な集中ができなければ不可能な演奏を求められたりする。・・・私は現代音楽の楽譜に向かうとき、どちらかというと、作曲家が実際に紙上に記したものをできる限り正確につかもうとするところから始めることが多い。これは、極めて窮屈なことかもしれない。9に対して7とかいったものを演奏するとなると、特に音楽的だとは思えない志向にとらわれてしまうからね」(デレク・ベイリー『即興演奏の彼方へ』)。
 

 自作自演に代わるものとして、共同制作という在り方が昨今よく聞かれる。これは、オペラにおける演出家と音楽監督(指揮者)のように、作曲家と演奏者が手を取り合いながら作品の完成をみるというもの。
 過去に遡っても、作曲家が演奏者に、運指法や奏法、楽器特性などの助言を得るという場面は数多く、それによってもたらされた傑作も多い。
 けれども現代に於いては、作曲家は演奏の現場により深く関わり、楽譜に対しての注釈や具体的な音のイメージというものを細かく指示するといった場面も珍しいことではない。このような、自作自演ならぬ作曲と演奏の〈越境〉をもってして、演奏に携わっている作曲家は多い。
 アルノルト・シェーンベルク」らのものした〈私的上演協会〉が、このような制作の在り方の契機となったことは疑いようもない。ブーレーズのドメーヌ・ミュジカルも同様の時代の求めに応じて生まれたといってよい。
 
*例えば重音や微分音といった五線譜のフォーマットにくくりきれない音程、スラップやフラッターといった特殊なタンギング、特定の運指や楽器の使用法による効果などが挙げられる。なお、記譜法の問題では、すでにバルトーク・ベーラが1920年に現在でも用いられている記譜法が全音階体系から発したものであり、無調性音楽の楽譜としては適さないこと、ゆえに「12の音が持つ対等な機能というものを表すのにふさわしい記号と記譜法が望ましい」と述べている(バルトーク・ベーラ『現代音楽に関する問題』)20世紀には図形楽譜など、一見して読解不可能な楽譜のフォーマットも誕生したが、作曲当事者と一部の演奏家の間に流布した以上に普遍的な記譜法になるまでは至らなかった。この問題については野平一郎が興味深い問題提起を成している。

白い風景 吉松隆

2008年12月30日 08:12

今日は雨が降ってきた。

昼になれば雪も消えていくだろう。

yamagata5

yamagata6


山形を離れてからは、冬になると聴きたくなる音楽があった。


吉松隆『三つの白い風景』

以下作曲家のコメント。

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<>><三つの白い風景 3 White Landscape

 雪の風景によせる3つの楽器のための3つの幻想。
1曲目は「雪占(ゆきうら)」、
 降る雪や風の様々な形によせて春を占う大気の歌。
2曲目は「静雪(しずゆき)」、
 静かに積もりゆく雪によせて漂う優しい風の歌。
3曲目は「雪消(ゆきぎえ)」、
 淡い光の中でとけて消えてゆく雪によせる夢の歌。
 1991年秋作曲。1991年11月2日、fl:太田嘉子、fg:太田茂、hp:中村由美子により富岡ホワイト美術館にて初演。op.47。
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白い風景  White Landscapes

 雪景色を描き続けた日本画家:富岡惣一郎(TOMIOKA,Soh-ichiro)氏の絵に触発されて描いた音による雪の風景。雪占(ゆきうら:Divination by Snow)、静雪(しずゆき:Stillness in Snow)、雪消(ゆきぎえ:Dissappearance of Snow)という3つの短い曲からなり、いずれも一面白で覆われた日本の田園の雪の風景を描いている。
 1991年夏、富岡ホワイト美術館の委嘱により作曲。原曲はフルート、ハープ、ファゴットのトリオだが、1997年冬にフルート、ハープ、チェロと弦楽アンサンブルのために編曲された。op.47a。


異常に吉松作品を収集した時期があり(そのころは今のようにネットも普及しておらず、アマゾンなど微塵もなかった)、店頭発売もしていなかったので、アトリエダンシュに直接電話して取り寄せたのが、初演時の演奏の1枚。

白い風景1

富岡氏の作品のジャケットも印象的なこのアルバム、
特に吉松作品における空気感と言おうか、澄んだ大気の風景の中、遠近を持ったデジャヴが素晴らしい。
独特の浮遊感と何処か牧歌的で、しかし現代におけるクールさと言おうか、1990年代に書かれるべくして書かれた作品であると思う。

その後、シャンドスの吉松作品群から編曲版が。

白い風景2

例の如く、編曲してイージーリスニング化して、作品の持つしんとした行間を弦楽器の全音符で塗りたくってしまいました的音楽。原曲の編成の質感が優れているだけに共感できず。同収録の『夢色モビール』に関しても同様。他は素晴らしい作品ばかりなのに・・・


白い風景

チェリストの向山佳絵子さんのアルバム。
この曲って、フルートがメインなような・・・ファゴットをあえてチェロで演奏して、更にチェロ小品集のリーダーアルバムの頭に持ってくるとは・・・その心意気が音楽にも出ている感じがする。


ちなみにトミオカホワイト美術館はこちら

アトリエダンシュのCDは、もうタワーレコードなどでも購入できるようです。
(店頭で見つけた時は、少し悔しかった・・・)


その後縁あって冬の魚沼に何度か行く機会があった。
何かが繋がる時に、その溶媒が音楽であるのはうれしいことだ。


出羽桜、サックスを吹きまくる、宝探し

2008年12月29日 19:30

出羽桜の酒蔵に日本酒を求めに行く。

出羽燦燦という山形の米を使った純米吟醸の無濾過原酒を購入。
出羽桜というとさらりとしたイメージがあるが、最近はいろいろブランド戦略を構築している感が。
美酒というより骨太感。

yamagayta4

yamagata4


そして吹いた・・・

限界まで楽器を吹き続けるとどうなるのか!
何年振りかにこれでもかというくらい吹き続けた・・・

今は圧倒的に心地よい疲労感に包まれている。


ああ、音楽ってこんなにも素晴らしい。

音楽に全力を注げることがこんなにも幸せであると感じることができるだけで、

生きててよかったと思う。


自分の人生を音楽に賭けずして何の為ぞと思う。


 ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪


実家が宝の山だったことを再確認。
京都に行くまで僕が所有していたCDや本や楽譜がぞろぞろ・・・

アーノンクールのシューベルトの堅固さ
アイザック・スターンの意外な力強さ
グルダの永遠の自由
ピノックのファンタジー
ドゥラングルの孤独っぷり
ベームのシュトラウスの渋さ
ビルスマのさり気ない佇まい

・・・


CDは全部PCに投入していこうと思う。
楽譜と本は・・・だれか仮住まいさせてくれる方いませんか?


しかし、ロバの「エチュード」があるとは・・・
何をしたかったんだ→大学生の自分
そして再びの完全敗北・・・

演奏の哲学 第1章 前提―20世紀、演奏の潮流1

2008年12月29日 17:02

第1章 前提――20世紀、演奏の潮流

第1節 音楽の構図

 奏でられない音楽が、われわれの耳に届くことはない。楽音は五線の上に留まることを望んではいない。作曲家によって〈書き留められた(ノート)〉何物かはまた、〈音(ノート)〉として解き放たれることを欲している。
 これがまずはじめの前提である。

 ネウマ譜にはじまる西洋伝統音楽の、音を固定化し、何らかのフォーマットに記録する試み。ここに、音楽が、他の演奏様式と比べても独特な構図を持っている所以がある。
 つまり、作曲家の所作のみでは音楽は現実に存在しえないということである。記譜上の楽音は、ある発声体を通して空気を震わせることにより、音楽というかたちをとって存在する(それは存在と言えるのだろうか? 「音楽はどこにあるのだ」(ジャンケレヴィッチ)?)。音楽の存在を知らしめるもの、楽音を大気に解き放つもの、それが演奏の概念である。
 音楽という芸術の創作者である作り手(作曲者)と聴き手の間を取り持つ演奏、媒介者としての演奏者の存在こそが、音楽を独特なものにしているのだ。
 例えば、絵画や文学といった芸術様式を見てみよう。そこには、作り手と受け手の直線的な関係が見て取れるだろう。霊感を受けた者が、その声を世界に向けて具現化する――大方は可視化する――、その顕れ、その啓示は〈かたち〉をとって、受け手の前に提出されるのである。音楽もそうであったら良かったのやも知れぬ。作曲家が総譜に日付と署名を入れ、作品番号が振られた瞬間に、聴衆がその音楽を受け止めることができれば。そうすれば、武満徹もレコードを叩きつけることはなかったのだ。
 もちろん、作曲家がスコアを提示した時点で音楽は完結する/したという視点も存在する。この点については後述するが、「音楽が、読むためでなく聞くためにできている」(ジャンケレヴィッチ)こと、音楽を聴覚が求める限り、そのような態度は音楽という芸術様態を完全に把握するためには至らないと考える。
 
 作曲家・演奏者・聴衆という、時には三位一体という言葉も使われる音楽の構図を、ヴラジミール・ジャンケレヴィッチは「作曲家、能動の再創作者である演奏者、虚構の再創造者である聞き手が、三者いずれもある魔法の作業のようなものに参加する」ことだと述べている。幾分ロマン主義的解釈を含んだこの言説は、しかしまた演奏者に亡霊のように付きまとってきた問題を提示している。
 
 つまりは、演奏者は何をすべきかという問いを。

雪、北、冬。三好達治、ヤン・ガルバレク

2008年12月29日 04:00

夜行バスで実家へ。
なんだか大雪だ・・・

yamagata


三好達治の詩に、「雪」という作品がある。


 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
 


三好の詩は高校生のときからずっと好きだった。

研ぎ澄まされた言葉の行間、想像力の余白の美しさ。
静謐、しかしぬくもりがある。

雪の積もった夜の、言葉にしがたい心象というものは、
おそらく雪国に育ったものしか分からない。

全てあまねきものに降りしきり、重荷として積り続ける雪の、えもいわれぬ存在感。
夜の闇と、それにあがなうような雪の白。



ところで最近一番聴いているサックス奏者は、おそらくヤン・ガルバレクだ(今更?)。

officium
Jan Garbarek & The Hilliard Ensemble "officium"

ヒリヤードアンサンブルのグレゴリオ聖歌と、ガルバレクの「ある種宗教的な」ソプラノサックス。
ECMレコードの、いわゆる”The Most Beautiful Sound Next To Silence”という言葉に、これ以上当てはまる音楽はないだろう。

この音楽に集中しすぎると、周りから音が奪われ、感覚が研ぎ込まれ、時間さえ分からなくなるという体験ができる。

「美しさ」という観点で言えば、至上の1枚ではなかろうか。



garubarekelixir
Marilyn Mazur & Jan Garbarek "elixir"

共演を重ねた女性打楽器奏者との共作。
静的なリズムと、多様な打楽器の繰り出す音色が、さながら音の森の中を歩いているような錯覚がある。
ガルバルクのサックスは、あくまでも自然に挿入される。

この音楽でコンテンポラリーダンスの作品を作ったら面白いと思う。


ガルバレクの勝手なイメージ
「知的・静的・寡黙・求道者・変人・辛抱強い・頑固」
しかしそのサックスから紡ぎだされる音楽はどこまでも遠くに差し込んでいく光のようだ。
それは祈りにも似た。


さて、実家に着いたら一気にシベリウスでも聴こうかしら。
シンフォニーを7番まで。

「狂気」について(年末なのに物騒なタイトル)。ラヴェル、シューマン。

2008年12月28日 16:40

そんな訳で行ってきました練習・忘年会の東京横断レース。


練習は生き恥を晒して・・・

サックス12人で「クープランの墓」を練習。

全員が5?10才年下の後輩に囲まれて幸せな時間を過ごす。
噂では聞いていたが、みんな地力がついているというか、基礎能力が高く、年寄りは肩身が狭い思いをする。


ただ、楽器を吹く力はあるのだが、得てして表現を磨いていきたい、とも感じた。


生きるということにおいて、どれひとつとして同じ瞬間などないように、
楽譜の上に踊る音譜も、ひとつとして同じ音などない。

自分がどう生きるべきか、今の自分の役割とは何なのか、
音楽に関しても、ひとつひとつの音符の意味と価値を、全力を賭して表現したい。


全力で、本気で生きてこそ、歓びがあると思っている。




ところで、ラヴェルという作曲家の、一聴すると華やかな曲想やオーケストレーションの裏側というか奥底にある「狂気」のような感覚に、いつからかとても魅了されている。

たとえば「逝ける王女のためのパヴァーヌ」の、たゆたうような時間の流れ、情感的だが無機質な旋律の行き場を失ったような無重力感、ざらついた弦楽器のトゥッティは、まさに凍てついた死の世界の呼び水だ。

あの華やかな「スペイン狂詩曲」でも、軽やかな「道化師の朝の歌」でも、もちろん「ダフニスとクロエ」でも、瞬間に挿入される異質な世界は、オットーの「魅惑する神秘」という言葉が相応しい。



「狂気」を感じさせる作曲家として、僕にとってはロベルト・シューマンがいる。


しかしシューマンの「狂気」は、シューマンという一人の人間の深奥に潜む、あまねく人間の「狂気」の片鱗である。

シューマンの音楽から感じる「ちょっとした」違和感、「微妙な」ズレ、「ふとしたはずみのような」不協和音。
何かが違う。
大方の人々はその違いに気づかない。世界はそんな「とどこおり」には構わず流れて(流されて)いく。

そしてそのまま、何もなかったように一日が終わる。


「ささいな」ボタンの掛け違いのような「狂気」。


しかしいつの間にかその「狂気」は世界の何処かに「溜まり」のような場所を作り出している。
人の心の何処かに、決して中を覗くことができない暗闇があるように、いつの日かそれが全てを飲み込んでしまうのではないか、という怖れ。

それが、僕がシューマンの音楽に惹かれる理由である。

「森の情景」が、最もシューマンの音楽たると思う所以はそこにある。


一方、ラヴェルの見せる「狂気」は、人間の生を超えた「死の世界」である。


凍てついた深淵、ひやりとした触感、血塗られた夢・・・

深く冷たい湖の底、決して戻ることのできないエウリディーチェの招き手、
ラヴェルの「狂気」は、そんな異世界の温度なのだ。


「クープランの墓」においても、たとえば一見華やかな「リゴードン」に、その世界は確かに「ある」。

稀代の天才サンソン・フランソワの遠近に満ちたピアノは、一瞬だけその世界に魂を引きずり込もうとする。

たとえば一枚の写真が、決して映るはずのない「あちら側」の世界の入口を映してしまったような。


ラヴェルの音楽の、まったく解き明かせない魅力は、そこにこそ存在する。



   ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
 

忘年会は、お疲れさまでした・・・

やはり記憶があやふや・・・


来年は動きのある一年になりそうな予感。





明日は練習、忘年会

2008年12月27日 03:15

4時間後にはソプラノサックス持って電車に乗って、
2時間かけて練習に行くのです。

クープランの墓・・・

難しい・・・

5年間まっとうに音楽をしていなかったと思うと、
たとえ明日所見で後輩に白い目で見られようと、
音楽できる喜びだけで幸せです。

でもたぶん自分には幻滅です。


夜は立川の「熊」で忘年会。

「熊」、知る人ぞ知る風流人の溜まり場です。
いつも「熊」の日本酒で悪酔いするから、
明日はほどほどにしておきたい。

立川のまーぼーどうふ食べたいなあ。

ということでそろそろ寝なければ・・・

おやすみなさい。

演奏の哲学 序章2

2008年12月26日 23:50

 私は今回、演奏(者)への視点から、音楽なるものを考察する。カナダのピアニスト、グレン・グールドをその中心に据え、彼の遺した多岐に渡る録音と著作から、演奏という概念を手繰っていきたい。それは、彼をテクストとして読み直す作業であり、同時に演奏(者)という謎に満ちた在り方を探る思考の旅でもある。グールドという存在のプリズムを通して、私は演奏(者)の今日的な在り方を探りたいと欲する。それは、私自身が、未熟ながらも、演奏によって音楽と携わってきたことから発している。本論はそういった個人的体験に動機を得るのではあるが、しかし演奏については、音楽の文脈に於いて、ことに現代的な問題を孕んでいる。第1章では、何故それが今日的な問題なのかについて考察し、とりわけ20世紀初頭からの演奏に対する態度の改革の試みを俯瞰していく。第2章では、先のグールドを、彼とピアノとの関係、彼と作品との関係、そして彼がレコーディングというテクノロジーを通して求めたものといった視点から解体し、そこに演奏(者)の存在の意味を探る。グールドと他の演奏様式の概念との異同を通して、彼の考える(もしくは彼の演奏から滲み出る)演奏(者)の役割を考察することに始まる第3章では、ニコラウス・アーノンクールとの照応を試みながら、≪攪乱≫を鍵に、彼らのもたらした音楽と、演奏(者)の在り方についてみていくことになる。彼らの演奏は、音楽同様、作曲家?演奏者?聴き手の関係からなる音楽の構図(そしてそれは非常に今日的な現象である)についても、新しい光を差し込ませる筈である。

本論文の導き手となるグレン・グールドについては、硬軟様々な言説・批評がもたらされているが、ここでは純粋に音楽的な見地に立って、彼の演奏もしくはそれに基づく言説に焦点を絞る。よって、彼の神経症や精神分析といった見地、またグールド自身強い影響を受けたと公言するマーシャル・マクルーハンのメディア論的見地は非常に興味深い点ではあるが、それらとの関係づけは今後の課題となろう。また、本論文にあたっては、ケヴィン・バザーナの、演奏家としてのグールドに焦点をあてた研究に触れる必要がある。その詳細かつ画期的なアプローチは非常に大きな指標である。私は時に助けられ、時に批判的に見ることでグールドに近づこうと願った。バザーナの目的とした、「グールドの業績に対し、読者や聴き手が、もっと教化された、個性的な反応ができるように」との言葉に励まされながら。

演奏の哲学 序章1

2008年12月25日 11:11

 優れた芸術は、人を詩人にする。

 もちろん本論で芸術想起の論を展開するつもりはない。それを語るに私は足らない。けれども自らの未熟さを知ることから、この論は始まる。

 音楽について語ることには非常な躊躇がある。〈筆舌に尽くせないもの〉というジャンケレヴィッチの言葉が私に重くのしかかる。音楽は記号による固定化を拒み、散文の限界を知らしめる。しかしそれは音楽について語ることの〈死〉ではない。むしろ、その意味の深遠さに、言い尽くすことのできない拡がりに、私はたじろぐのだ。優れた音楽は私を突き動かし、私がそれについて何かを語ることを求める。これから記すものは、音楽のあまねき諸要素のごく一面に過ぎない。私はその微量なるものに全力を賭してあたらねばならない。

 ところで、我々は音楽について語るときにこそ、音楽が他の芸術とは異なった性質を持つことに気づかされる。そこには二重の対象が含まれている。すなわち、作品について語っているのか、演奏について語っているのかということである。その総体をして音楽が成立するところに、音楽の誤謬が潜んでいる。我々はいったい、音楽について語っているのだろうか? 絵画や彫刻といった空間芸術の、創り手と受け手の直接性が、そこにはないのだ。それでも、音楽について語ることは創り手、つまり作曲家とその所作について語ることが常であった。そこにこそ誤謬が生じる。なぜなら、作曲家とその作品について語ることは、生み出されていながら未だ生み出されていない音楽について語ることなのだ。そこには過去と未来が織り込まれているに過ぎない。そしてそれを現在にもたらすのが、演奏(者)である、我々はこれまで、音楽という一般に時間芸術と呼ばれる存在を語るにあたり、現在を置き去りにしてきたのである。

「演奏の哲学」導入・当ブログの基本的考え方・引用、参考文献についてのポリシー

2008年12月25日 11:07

このブログスペースを利用して、いつか発表したいと思っていたものたちを、少しずつ残していきたいと思っています。


「人は壺と一緒で、中にあるものを出さなければ新しく何かを入れることはできない」


基本的には音楽に関する論文が中心となってくるとは思いますが、
もしかしたら演奏の風景や練習風景なども載せていくかもしれません。


♪♪♪♪♪♪♪♪


はじめにアップしていこうと思うのが、以前僕が書いた論文です。
「演奏の哲学」という大仰しいタイトルです汗(つけたのは僕ではない)

かなりの長さですので、いろいろはさみながら
春くらいまでにはすべてアップしたいと思っています。


なお、掲載に先立って、当ブログは非営利のもと個人的に運営しています。
しかし、引用など何らかの形で著作権等問題が生じているという場合がありましたら、
ご連絡を頂けるよう、お願い申しあげます。
適切に対処させて頂きます。

また、引用論文に関しては、当ブログ文章上では「(バザーナ)」というように記述させて頂きます。
折につけてまとめて、著者著作名とおすすめのような形で紹介させて頂こうと思っておりますので、ご理解のほどよろしくお願いいたします。


gremzを貼ってみた。

2008年12月24日 11:03

本家に触発されて、ここにもgremzを置いてみた。


今勝手に決めていることがあって、
これから自分がなにがしかのコンサートを主催していくときには、
必ずなにがしかのエコアクションを行おうと思っている。


節電・リサイクル・あるいは他の、参加できるようなかたちで。


全ての行動において、現代ではその社会的責任が伴うと思っている。

コンサートを開催すれば、当然のように環境に負荷が生じる。
照明や暖房を入れれば電気使用が生じるし、
パンフレットやチラシには紙その他が使われているし、
そもそも莫大なエネルギーがホール建築には注がれているし、
ホールまでの移動手段その他でCO2が発生する。

コンサートに関しても、工場その他と同様に、例外なく地球環境に負荷を与えている。


じゃあ何もしないで部屋で丸くなっていればいいかといえばそうではない。


楽しみながらエコアクションを行い、自分たちが与えている負荷を少しでも軽減させたい。
そう最近、思うようになった。

牛乳パックやペットボトルを極力リサイクルし、
エコバックを持って買い物に行き、
こまめに電気を消す。水の出しっぱなしをしない。

そんな当たり前のことを少しずつ。

gremzも、少しずつ。

大きなこと、だいそれたことなんていきなりできない。
少しずつ積み重ね。

そしてそんな風に積み重ねていくからこそ、大切になる。
もっともっと、大事にしたくなるはず。



アメリカの就職人気企業ランキングに思うこと

2008年12月24日 01:12

興味深いニュースを見た。

アメリカの就職人気企業ランキングで、アップルコンピュータなどを抑えて、
NPOが二つ、十傑の中に入っているとのこと。

就職人気企業ランキングの比較 日本とアメリカ


人生の価値観・世代の価値観の変化なのか、
「仕事」というものの価値観もまた、大きく変化しているということを感じた。

もちろんキャリアパスとしての側面や、大学と企業の中間地点的(橋渡し的)存在という観点があることも否めない。
しかし、決して誤解を恐れずに言うならば、金銭や社会的地位に基づいた社会の在り様が変わっていく(すでに変化している)であろうということ。


今は、非常に重要な転換期であると感じる。

おそらく来年からますます深刻になっていくであろう不景気や一種の恐慌状態も、
もしかしたら旧来型の価値観から抜け出していくチャンスであるかもしれない。

もちろん、現行の経済的・社会的枠組みが、そのインパクトに耐えられればの話だが。


使命感という言葉が最近よく聞かれるが、僕は漠然とした使命感というよりも、先にあげたアメリカのランキングから、自己重要感の必要性を改めて感じた。


自分を真に必要としている人たちがいること。
自分の存在や行動、仕事の価値を認め、自分がここにいることの意味を確かに感じることができること。

金や地位に立脚せず、アイデンティティを意義に変えること。



今自分が為すべきことは何か?

結局は常に付きまとうこの問いかけに、どこかで決着をつけなければならないのだ。






Music for a found Harmonium

2008年12月23日 02:19

最近iPodに多量に投入したケルト音楽の中に、
ペンギンカフェの"Music for a found Harmonium"をカバーしたものが混じっていて少し驚いた。

Harmonium(ハーモニウム)とは、簡単な話足踏みオルガンのこと。
しかしなぜかその言葉の響きに惹かれる。
なんとなく「ハルモニア」を連想しませんか?

「ハルモニア」は、元来音高の数的比率という意味合いであったものが、
ルネサンス以降、「美しい響き」と定義されるようになった(ティンクトリス)。
要は「ハーモニー」である。


はじめペンギンカフェの奇妙なタイトルを目にしたとき、

「これは半永久的に解決しない和声や調性に対して延々とくだを巻きながらあーでもないこーでもないと音響的実験を繰り広げ続ける曲なのではないか」などと思ったわけは・・・ないか。


そんなペンギンカフェ、実際トリビュートやカバーばかり聴いてオリジナルを聴いていなかった。
環境音楽の実践者(もちろんそのトリガーはサティだ)くらいしか知らなかったので調べてみると、
やはりブライアン・イーノの名前がちらほら。


20世紀中盤から現在に至るまでのイーノの足跡を、そのうちたどってみたいな。


ちなみに問題の作品はこれ↓



あきれるほどに素敵。


ちなみに「ハルモニア」というと、以前何かのアニメの主題歌でRYTHEMとかいうグループの歌があったが、あれも名曲です! 間違いない!



音楽ノート1

2008年12月22日 01:47

音楽の神様は、いると思う。


久しぶりに、指揮を振らせてもらった。
黴臭い楽器を吹いた。


音楽に、良いも悪いもない。
上手いも下手もない。


それでも、優れた音楽はある。

「音楽は人の形をしている」と、作曲家の吉松隆さんが書いていた。


そういえば昨日、音楽は人間の命と似ているのかもと思った。
音楽とは、必然的に配置された音の流れ。
音は発せられた以上、必ずなにがしかの意味を持っている。

優れた音楽とは、そのことを顕わにする。


人も、この世に生を受けた瞬間から(もしかしたら受ける前から)、
意味を持って生まれてくる(そう思いたい)。

そして人と人とが様々な関係性の中で、大きな物語を生み出している。


良いも悪いもないが、聴きたい・奏でたい音楽はある。
それは、全身全霊を持って音楽の意味を解かんとするような音楽。
必ず過ぎ去る一瞬を全力で生き切らんとする音楽。

音楽は、生の喜びを表現し、全肯定する。



だから人は(僕は)、音楽に惹かれ続けるのだろう。





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