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新しい季節に。

2009年03月31日 23:08


3月が終わり、新しい季節がやってくる。


2008年度、というのだろうか、今年度は本当にたくさんのことがあった。

手繰り寄せつつあるのも、手放したのも、全て自分自身だ。


しかし、一番失ったものは自信かとも思う。


職を離れる前にある人に言われた言葉。

その時僕はまだ飲食に従事しており、いつか音楽の夢を叶えたい、と言った。

「これまで培ってきた道を捨てて、別の道を歩もうとしても叶うわけがない。まして飲食の道で成功しつつあるものを全て捨てて、音楽などという芸事のようなものを一から出直す。遅すぎる」


音楽のために進んできたはずの道だった。

その言葉に、僕は返す言葉を見つけられなかった。


そして僕は、一から出直すことに決めた。



自分を信じると書いて自信。

そのために必要なのは、行動しかない。

知識、経験、人脈、情報、カネ、全く何もないところから、何かを生み出すには、行動しかない。


しかしほぼ半年の間、どう動いていいかすら分かっていなかった。

行動すらできず、無為に時間ばかりが過ぎた。


自分は幸せだと思う。

いつの間にか、進むべき道が、ぼんやりとながら見えてきた。

たくさんの人に支えられながら。



今年度は勝負の年だ。

世界を切り開く、はじめの年だ。

そう自分に言い聞かせる。


新生活をはじめる人にも、昨日とおなじ日常の人にも、
全ての人に、春の祝福が訪れますように。



[image/air_ : 細越一平]


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i phone 欲しい。

2009年03月30日 12:41


という訳です。


しかし件のi phone、知れば知るほど、これまで気づかなかったことが明らかになってくる。

例えば日本の携帯電話のガラパゴス化。

それはそれで、世界の最先端の技術と文化なのだが、「開かれていない」ということは、今後「拓かれない」という結果を招く。


クラシックの音楽を取り巻く状況も、似ているのではないだろうか。


想像力。

2009年03月29日 03:10


問題提起をし続けること。


自分たちの行動が、なにがしかの動きと、なにがしかの変化(もしくはその兆し)と、なにがしかの価値を生み出すと信じること(そして確かに責任が生じるという自覚を持つこと)。


世界を確かに変えられると信じなければ、言葉を発するべきではないのだと、心に誓うこと。


既存の枠組みにとらわれないこと。もしくはそれを逆に前提にすることで生まれる違いを持って、差別化すること。


音楽の文脈のなかで留まらない想像力を活用すること。




最近は、image/air_のアイディアを具体化する作業をしている。

学ばねばならないことがたくさんありすぎて、時間がいくらあっても足りない気がするが、楽しい。

ほんのりおぼろげな形が見えてきてはいる。

もしもこれが現実になったらと考えると、ワクワクする。


 MUSIC for TODAY
 MUSIC for TOMORROW
 MUSIC for SOCIETY


「夢は叶えるものではなく、手繰り寄せるものだ」。



[image/air_ : 細越一平]






グリムス(grems)からメール、木を植える(植えてもらえる)。

2009年03月28日 23:30


何気にその成長を楽しんでいたグリムスの木が、ついに大人の木になったらしい。

そのことを伝えるメールが届いていて、ちょっとうれしくなった。


12月にブログを書こうと思い立ってから、毎日、音楽について言葉を綴ると決めて、いざそれがなにがしかの形になったということが、やっぱりちょっとうれしい。


この木は、実際の苗として、次回の植樹で世界の何処かに植えてもらえるらしい。


「繋ぐ」ということをひとつのキーワードとして考えている image/air_ の観点からも、このgremzの仕組みはとても興味深い。

聞けば佐藤の知人だそうな。いろいろ勉強になります。


楽しみながら、いろんな「繋がり」が「拡がり」になっていく。
エコにしても音楽にしても、そんな種を植える仕事を、していきたいと思っている。



そんな訳で、また明日からは音楽の話。


これからもよろしくお願いします。



[image/air_ : 細越一平]


誰も寝てはならぬ、パヴァロッティにむせぶ。

2009年03月27日 18:47

この人の名は、「愛」です!

と高らかに歌いあげ大団円を迎える歌劇『トゥーランドット』が、大好きだったりする。

かなり前に、井上道義指揮、勅使河原三郎演出のかの舞台を見た。
なんと短絡的で愛らしいストーリーなんだろう。
しかも音楽のドラマティックさ、ロマンチックさに、素直に感動したのを覚えている。


とあるきっかけで、パヴァロッティを聴き返した。
pavarotti



純粋に、その歌声に感動した。


以前は、三大テノールに代表されるような商業主義的な匂いに嫌悪感を抱いていた。
サッカー場でマイクつけて歌ってもナ?と。

しかし、今回聴きなおして、オペラのテノールとは、ヨーロッパの社交界の中心たる花形なのだと改めて認識した。

それが現代において、あのようなコンサートを開いても、目玉が飛び出る値段でチケットをさばいてもいいじゃないか。


とはいえ、あのようなコンサートは二度と開かれないだろう。
それはスターの不在でも、クラシック文化需要の凋落でも、世界的な経済危機によるものでもない。


パヴァロッティという不世出の存在の輝き、あの歌声こそを、人は求めたのだ。



[image/air_ : 細越一平]

'We choose to go to the moon'. なぜ音楽をするのか。

2009年03月26日 00:17


実は今、新しくサックスのアンサンブル団体を立ち上げる準備をしている。

とはいっても、まだSNSを設置してコミュニケーションを取り合おうとする段階だけれど。


少しずつ、少しずつ、それでも一歩一歩、途切れることのない歩みを続けることが、自分たちにとって、未熟ながらも音楽に近づく道であると信じて。


そんな中、突然友人が日記にこんなタイトルを付けてきた。

「我々は月に行く決断をした。」

おいおい。大丈夫か?

でも本人は大まじめだった。

許可も取らず転載する。
それはJ・F・ケネディが行った、ある演説の一節である。



-----
We choose to go to the moon.

我々は月に行く決断をした。

We choose to go to the moon. We choose to go to the moon in this decade and do the other things, not because they are easy, but because they are hard, because that goal will serve to organize and measure the best of our energies and skills, because that challenge is one that we are willing to accept, one we are unwilling to postpone, and one which we intend to win, and the others, too.

我々は月に行く決断をした。
我々は60年代のうちに月に行き、それ以上のことを達成する決断をした。
たやすいから行くのではない、困難だからこそ行くのだ。
このゴールが我々の力と技術を測るには最良だから行くのだ。
このチャレンジを我々は甘んじて受け入れ、立ち止まることを望まず、勝利への意思を持っているからこそ行くのだ。


-----

「なぜ音楽をするのか」と彼は書いていた。



なぜ音楽をするのだろう。


ケネディの言葉は確かに力強い。
そして同時に、聴く者(読む者)に、新しい世界への想像力を、与えてくれるようにも思える。


'We choose to go to the moon'


忘れないでおこうと、ここにメモする。



[image/air_ : 細越一平]


ジョン・ケージ「サクソフォン作品集」

2009年03月25日 01:58


ここ数日のヘビーローテ?ション。

といいつつ、ケージの音楽を録音で聴き続けるのってどうなんだろうと思う。

と思いつつ、i podで音楽を持ち運ぶ、その「場」を変えるって、ケージは逆に望んでいたのかもしれないとも思う。


cage


でもやはりケージの音楽は、ライブで体験してこそ、だと思う。

一度演奏した FIVE4 も含めて、ケージの作品を演奏するのが、ひとつの夢だ。



比喩的に現実がえぐられる、そのなかに人間の面影がある、そんな音楽。

つづく。


[image/air_ : 細越一平]


仕事とは。<ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2009>に思うこと、モンスター。

2009年03月25日 01:09


世間様が「したくてもできないこと」を、われわれが代わりにさせて頂いていること、それが仕事だ。

それが収益を挙げるのは当たり前である。それがビジネスだ。
逆に、収益を上げていないもの、赤字であるものは、世間様に必要とされていないおせっかいだということになる。


音楽、とりわけ現代日本のクラシック事情においても、同じことが言えるだろうか?

そこが今の僕の論点。




評価というものも、過大になるとそれは異物になっていく。


<ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン>は、今年は「バッハとヨーロッパ」がテーマだそうだ。

ここ数年、ゴールデンウィークの東京の風物詩となった感もあるこのイベント。
見ると、有料コンサートはすでに全て売り切れていた。

<ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン>のイベントが巨大になり、東京国際フォーラムを埋め尽くしていったここ数年。
クラシック音楽業界の購買層はまだ捨てたものではないと思った関係者がたくさんいたという。

それはそうだ。
<1%神話>に代表されるような曖昧なマーケティング信仰が、5月のたった数日、それも一ヵ所で100万人を突破する怪物とであったのだ。

しかしそれも、結局は一過性のモンスターである。
軒並みクラシックコンサートは舶来ものが来ても閑散とする状況が続き、ましてこの経済不況で、特にスポンサードに入っていた企業が軒並み経営赤字に転落する事態が追い討ちをかけている。

<ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン>には何度か足を運んだ。
ナントの<ラ・フォル・ジュルネ>では、チケット購入者のおよそ6割がコンサート初体験者であったという。

この音楽祭の理念はとても素晴らしいと思うし、大いに共感するところはある。


しかし、この音楽祭が社会的に与えるインパクトはどうだろう。

もちろん祭りであるから一瞬の花火のようなものだ。
しかし、少なからず「文化」という物事を考えた時に、そこから派生する未来をどれだけ見据え、継続し、実践し、波及させていけるかという視線が、そこに携わる者としての社会的責任になるのではないだろうか。

その視線は、少なくとも今、この音楽祭からは見えてこない。

一概に利益体質が強まった気がする、というわけだけではないだろうが・・・

とりわけ今回の音楽祭は、なにがしかの分水嶺になるのではないかと思っている。



これから進めていく事業は大きく3つ。


'for Tomorrow'
'for Today'
そしてもうひとつ。

それを形と価値に、落とし込んでいかなければならない。



"standing on the shoulders of giants"といったのはニュートンだが(オアシスにもそのタイトルのアルバムがある)、われわれは決して、モンスターの上に乗っているのではない。



[image/air_ : 細越一平]


コア・コンピタンス、image/air_。

2009年03月24日 02:08

われわれにしかできないものはなんだろう。

われわれのアイデンティティとはなんだろう。

核となる強み。他に真似できないもの。


われわれはなにをすべきか。行く末はどちらか。ということについて想いを巡らせている。

不思議なもので、脳は汗をかけばかくほど活き活きとしてくるのだ。



意外と、はじまりの言葉 "image/air_" という言葉の響きの奥に、

その答えがあるのかもしれないと、思うようになってきた。



どうしてこの言葉が生まれたのかはわからない。

しかし、自分にとって最も必要なものは、確かに image と air の交差するところにあった。


そしておそらくそれは今も変わっていない。



さて、今日ももう少し汗かきますか。




[image/air_ : 細越一平]

音楽は誰のものか?

2009年03月24日 00:15

先日友人と飲んだ。


その時の言葉。といっても有名なコリオグラファーの言葉。



 3流のダンサーは、誰かの真似しかしない。

 2流のダンサーは、作品を自分のものにしかしない。

 1流のダンサーは、作品を誰のものにもしない。




音楽は誰のものか?




[image/air_ : 細越一平]

<新しい耳> テッセラの春音楽祭続報?

2009年03月23日 00:17

テッセラの春音楽祭の、通し券が届いた。



そういえば、演奏会の前売り券を求めるのなんて何年振りだろう?

いつも思い立ったが吉日派なもので・・・


tessera2



<新しい耳>という言葉の意味について、最近考えている。


主催者の方とメールのやり取りをさせていただいている中で、様々なつながりの紋様や希望のような想いを、<新しい耳>という言葉から感じている。

音楽に対して、そして今の音楽を取り巻く現状は勿論芳しくはない。

しかしそのなかでも、志を持って行動に移している人たちがたくさんいる。


富士フィルムのCM、「少しずつでも、世界は変えられる」というキャッチコピーが、僕は好きだ。


5月の3日間、優れて現代の<何処か>、私たちの<何処か>を抉り、貪り、震わせ、響かせる作品の数々を、強力な演奏者に届けてもらう喜び、その機会・その音を、全身で浴びてみたいと思っている。




<新しい耳> テッセラの春音楽祭のチケット・お問い合わせは、アレグロミュージックまで。

また、主催者様のご厚意で、僕に直接連絡いただいてもチケットなど手配できます。
ぜひご連絡ください。
各回70席しかありませんので、お早めに!




[image/air_ : 細越一平]

池辺さんのしゃれにもさようなら。

2009年03月22日 21:27

バレエの世界には、動きや演技でなく、顔だけで表現しているつもりになった人のことを「顔サー(ガンサー)」というらしいが

ラン・ランというピアニストを見るといつもそのことを思い出す。

あの類の演奏は、なにもピアノじゃなくてもいいよねと、いつも思う。


なんだか結局アジア人にとってもクラシックって、曲芸や見世物小屋の部類を出ないのか・・・とか思ってしまう。



壇ふみさんと池辺さんのコンビ好きだったなぁ。

ありがとうございました。




[image/air_ : 細越一平]

ルーブル美術館展@国立西洋美術館

2009年03月22日 02:59

ちょっと気になっていた、西洋美術館にて開催されている
<ルーブル美術館展 ― 17世紀ヨーロッパ絵画>を見てきた。

とりわけ<「黄金の世紀」とその陰の領域>という部分。


刺激的、という類ではないけれど、優れた作品には何処かを突き動かされるような波動がある。


僕は絵画には詳しくないけれど、特に何点か印象に残った。


・「大工ヨセフ」ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
・「ジョウビタキの巣」アブラハム・ミニョン
・「リュートを持つ道化師」フランス・ハルス
・「山岳地帯の川、スカンディナビアの景観」アラールト・ファン・エーフェルディンゲン
・「ブラジル、パライーバ川沿いの住居」フランス・ポスト
・「弓を持つ東方の戦士」ピエル・フランチェスコ・モーラ
・「歯を抜く男」ヘリット・ダウ
・「受胎告知 天使」、「受胎告知 聖母」カルロ・ドルチ
・「聖エウスタキウスのいる風景」ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオラ
・「ヨハネス・デ・フォスの哲学論文を呈示する天使と寓意像」ローデウェイク・デ・デイステル
・「ペテロの涙」グェルチーノ


とりわけ、「大工ヨセフ」。

運命の荒波に最も動かされたのは、イエスでもマリアでもなく、実はヨセフなのかもしれないなと、蝋燭の光に照らされたイエスを見つめるひとりの大工の眼差しに、そう感じた。


また、気づいたこと。

宮廷にせよ貧しい農民にせよ、フレームのあちこちに楽器が置いてあった。
もちろん何枚かは演奏していた。

そんなところに、改めて感動した。と同時に、そういった文脈にない自分たちの文化も感じた。




たまたま上野動物園が無料開園日だったので、ついにはいることができた!

学生の頃、上野文化会館の上に本や楽譜を漁りに行っていた頃、一回行ってみたかった場所なので、ちょっとうれしかった・・・!




[image/air_ : 細越一平]


「バオバブの記憶」

2009年03月21日 00:19

渋谷の雑踏を掻き分けて、イメージフォーラムにて「バオバブの記憶」を見てきた。






この作品は、バオバブの樹と同様、何かを訴えてくるものではない。


しかし、それが圧倒的な存在感とともに「そこにある」ということの意味を、観る者に問いかけてくるような、そんな映画だった。


個人的には、予告編でも流れる、トベタ・バジュンの音楽に射られた。


「バオバブの記憶」公式HP


人と、樹と。

佇まいを淡々と綴るフィルム。


止まっているようで、確かに息づいている時間が印象的。




[image/air_ : 細越一平]


創造の過程に グレン・グールドの音楽19

2009年03月20日 12:45

2<take2>


 テクノロジーはまた、コンサートにおいて行われる一回性の演奏に疑問を呈した。

 グールドはその動きの急先鋒であった。
 グールドはコンサートにおける一連の行為を嫌悪すらしていた。
 理由はひとつには先に挙げた競争の原理、つまりは「音楽の問題であるよりむしろ倫理上の問題」(GGR)が作用している。
 そして――もっとも重要なことは――ステージの上では自らの理想とする音楽を完全に表現することができないからであった。

 グールドとルービンシュタインの、平行線を辿るのみの対話は、この点で非常に興味深い(GGR)。
 レコーディング至上主義者のグールドと、ライブ演奏の持つ力を、たとえ録音の際にも疑わないルービンシュタインのスタンスの、どちらが正しいかを、わたしは答えることができない。
 けれども、確かなことは、この雄弁で論理的な才気あふれる若者を前にしたルービンシュタインの困惑と穏やかな語り口は、世代間の軋轢を越えた、いうなれば時代の在り方の差異を示しているということだ。


 そのルービンシュタインとの対話のなかでも使っているのが、<take2>という言葉である。
 つまりは録り直しであり、グールドにとってはテイクを経ることがそのまま創造の可能性を探る旅の記録であった*。
 複数のテイクを編集することでグールドは完全を目指した。
 このようなスタイル――グールドがことさらに強調し、多くの演奏家に改宗を迫った――が、コンサートあるいはそれに準じる録音を第一に考える人びとからの反発を受けた。

 彼らが主張するのが、一回性の演奏の概念、一貫性のそれであった。
 つまりは音楽から流れを疎外してしまうことで、作品が持っている思想のようなものを損なってしまうというのがその言い分であった。
 このことを、グールドは全く意に帰さなかった。
 そもそも、グールドにとって、音楽に思想などというものはなかった。

 彼にとって重要なことは、作品から副次的な要素――習慣であったり、時代背景や伝統による慣用句的表現、そして作曲家から演奏者までも――を切り離し、それが持つ構造を明確にすることのみであったのだ。



*という言葉で有名になった音楽家がもうひとりいる。マイルス・デイビスである。




[image/air_ : 細越一平]


創造の過程に グレン・グールドの音楽18

2009年03月19日 00:01

 グールドは、「ほとんどの人の好みから見ると、マイクが近寄りすぎ、きつすぎ、厳しすぎる」(コット)、5フィートの位置にマイクを据えた(当時のヨーロッパの主流は8?9フィートだった)。

 一般に、マイクの位置が近ければその分だけ楽器の音は裸に近い――残響に乏しい――<ドライ>な音質になるが、グールドのタッチのわずかな表情の変化を捕えるためには必然の選択だった。
 とりわけバッハの録音で、われわれはその<ドライ>な音質を――すぐそばにグールドがいるかのような――聴くことができる。
 特徴的なノン・レガートの響き、楽音のひとつひとつの質感が手に取るように伝わってくるのに加え、まるでスコアを繰りながら聴いているかのように音楽の全体的な形式や骨組み、つまりは構造が示されるのは、残響によって各声部が混じり合わないため、グールドの対位法的な音楽構築もまた明確になっているからである。
 バッハ以外のレパートリーの多くでは、それよりはマイクの位置が遠ざけられた。
 これは、バッハの作品よりはサスティン・ペダルを踏む回数が多いというグールドの奏法と直結するだろう。しかしそれでも、一般に扱われているよりは近かった。


 表現の拡張という点でまず挙げられるのはやはり『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の録音であろう。

 あのめくるめく対位法の応酬は、オーヴァーダビング(多重録音)の技術がなければ生まれなかった。
 「一枚の忠実な写しよりも、ひとつの実現へ向かって長い道を行く」(コット)というクレドのもとに制作されたこの録音は、彼の対位法的な思考を満たすものとなった。

 丘沢静也は、諸井誠の「お遊びの範囲を出ない凡作」という評に反発し、この編曲盤を「グールドの頭脳の叙情を証明、いや照明した名盤である」(丘沢静也「クールな牧歌 グールドのワーグナー」)とする。
 「私は批評家ではない。その他大勢の、単なる消費者だ」と自称する丘沢「グールドの編曲が、音楽の本性にふさわしいかどうか、私の知ったことではない」と留保を入れヴァーグナーの管弦楽の特権的に豊かな響きが聴こえてこないことで「ちょっと欲求不満に」なりながらも、「見晴らしがよく、とてもきれいで、知的で、洗練されている」グールドのヴァーグナーを、「あくまでも幸せで、穏やかで、天国のように平和なのだ」と表現している(丘沢)。
 丘沢のこの言説は、この録音の特徴の一面をよく言い得ている。
 グールドは、このような「新しいかたちの聴き手」を歓迎していた。
 彼らは、音楽が録音メディアによってコンサートホールと一部の愛好者から解放されることで、バック・グラウンド・ミュージックとして「1人の聴き手が数限りなく聴く機会を獲得する」(GGR)人々である。
 
 音楽の自由な拡がり、それがテクノロジーの効用のうちのひとつであった。




[image/air_ : 細越一平]


<新しい耳> テッセラの春音楽祭続報? 第3夜 山根孝司/野口美千光/宮坂拡志/廻由美子 幻覚?ストラヴィンスキーとメシアン?>

2009年03月18日 00:34

<幻覚?ストラヴィンスキーとメシアン?>


ストラヴィンスキー:「クラリネット独奏のための3つの小品」(1919)
ストラヴィンスキー:「イタリア組曲?ヴァイオリンとピアノのための」(1925)
ストラヴィンスキー:「兵士の物語」組曲?クラリネット、ヴァイオリン、ピアノのための(1924)

メシアン:「世の終わりのための四重奏曲」(1940)


現実の中にひそむ非現実、非現実が現実なのか? 幻覚は時として現実よりもリアルである。幾つもの次元を平然と交差させるストラヴィンスキー、この世ならぬ光の出現と奇跡を描き出すメシアン・・・。演奏は現代音楽シーンを生き生きと煌めかせるVnの野口千代光、N響メンバーであり、バロックから前衛まであらゆる時代を軽々と行き来するClの山根孝司、そして同じくN響メンバーであり、その豊かな音色と力強い音楽で新風を吹き込む若手Vcの宮坂拡志、そしてこの音楽祭のナビゲーターであるPfの廻由美子。非現実空間の扉があく。



2009年5月17日(日曜日) 午後4時開演
会場:サロン・テッセラ 03-3421-0541 
各夜70席限定
チケット申し込みは アレグロミュージック 03-5216-7131

主催:テッセラの春・音楽祭実行委員会




20世紀の「古典」とも言える名作が並ぶ。それを横目で見ながら、<前衛>とは何だろうと、ふと考える。<前衛>の失われた時代、点と点が、線になることなく、交差することもないランダムなドット絵のような時代。<寄る辺>というものが人の心に幾ばくかの安心をもたらすのならば、<寄る辺>を失った現代のわれわれの置かれている閉塞感や不安に、メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」はどのように響くのか。その先に光は見えるか。




[image/air_ : 細越一平]

<新しい耳> テッセラの春音楽祭続報? 第2夜 <友光雅司?大地のリズム?>

2009年03月17日 00:12

<友光雅司 ?大地のリズム?>



グレインジャー:「シェパーズ・ヘイ」(1913)
ヴィラ=ロボス:「ショーロス 第5番 ブラジルの魂」(1925)
ヴィラ=ロボス:「ブラジルの詩」(1936-37)

コープランド:バレエ「ロデオ」より(1942)
バルトーク「ピアノ・ソナタ」(1926)


足の裏から体全体に伝わってくる大地の鼓動。岡山の備前に住む友光雅司のピアノは、軟弱な都会人が忘れてしまったもの、コンクリートの下で呼吸をしている大地を思い出させてくれる。そして楽譜に書かれた音楽が空気中に息づいていることも。



<友光雅司>
岡山県備前市生まれ。6歳よりピアノを始める。桐朋学園大学音楽学部ピアノ科を卒業後、オランダへ渡り、06年ロッテルダム音楽院研究科修了。03年イタリア サン・ジェーミニー国際ピアノコンクールにてグランプリ受賞。これまでに日本、アメリカ、ヨーロッパでコンサート、リサイタル出演。ソロ・リサイタルはもとより室内楽、音楽祭、オーケストラのソリストとして精力的に演奏活動を行っている。



2009年5月16日(土曜日) 午後4時開演
会場:サロン・テッセラ 03-3421-0541 
各夜70席限定
チケット申し込みは アレグロミュージック 03-5216-7131

主催:テッセラの春・音楽祭実行委員会




観れば観るほど、惹きつけられるプログラム。
グレインジャーがイギリスのフォークダンスに基づいた(でもこの曲はダンスには適しませんと語ったという)音楽で幕を開け、ヴィラ=ロボスは南米の空気をそっと運び、コープランドが新大陸の勢いを伝える。そのあとに、バルトークはどのように響くのか。
ピアノの低音の、時たま顕れる野卑な響きもまた、限られた空間のなかの耳を、確かな拡がりへと解き放つかもしれない。
大地の匂いたつ、そんな音楽に出会える予感がする。



[image/air_ : 細越一平]


チャイコフスキー「交響曲第5番」、ヴァレリー・ゲルギエフ、ウィーン、キーロフ。

2009年03月16日 02:08



チャイコフスキー「交響曲第5番」を意識的に初めて聴いたのはラジオだった。

当時はインターネット・ラジオもyou Tubeもニコ動もなかったし、部屋にはテレビすらなかったので、音楽は都内に出てCDを物色するか図書館から借りてくるかラジオを聴くかしかなかった(もちろんアマゾンもツタヤオンラインもなかった)。


テレビがないので、アンテナ配線をミニコンポにさしていた、ラジオの音質は良かった!




NHK-FMで何気なく聴いていた音楽に、心臓をわしづかみにされた気がした。

終楽章まで一気呵成に過ぎた。


演奏は凄まじい集中力で、「鬼気迫る」と言っていいほどの危うさを孕んだバランスだった。

そしてそこから、異常なまでに燃え上がる音楽が生まれていた。


まさに音楽が生まれている瞬間に立ち会っているような感覚だった。

僕は汗をびっしょりかいていた。




演奏が終わり、凄まじいブラヴォーと拍手が響いていた。
(まるで譜門館のような!)

僕はとりあえず興奮したまま高校からの友人に電話をかけた。
「この演奏はCDにした方がいい」とかいった気がする。

そしてそれはやはりCDになった。




gerg1

ヴァレリー・ゲルギエフ指揮、ウィーン・フィル。
1998年、ザルツブルグ音楽祭のライブ録音。


それ以来聴いていなかったこの演奏を、10年ぶりに聴いた。




i storeで探していたら、何とこんなものまで発見。

gerg2

手兵キーロフを率いての演奏。
モスクワのイースター音楽祭でのライブ録音。


ゲルギエフの意図していたであろう音楽の構図が細部まで浸透しているであろう、キーロフ管弦楽団が、いつにも増して熱く、激しく、繊細な音楽を奏でている印象。

フィナーレの躍動感やテンションの高さは、こちらの方がシンプルに伝わってくる。

ウィーン・フィルとの演奏は、どちらかというと化学反応のようなイメージ。


もちろんどちらも素晴らしい。




リンクにもある パブリック・ドメイン・アーカイブには、ムラヴィンスキーやフリッチャイの演奏のほか、何種類かの演奏が保管されている。

普段は聴き比べとかはしないのだが、チャイコフスキーに関しては新参者であるので、勉強がてら様々な演奏に触れてみると、それらはどれももちろん「個性」はあるが「スタイル」という面では共通のものがあるように感じた。

アーノンクールがベートーヴェンの演奏に関して、そのスタイルは初演から現代までつながっていると述べているように、チャイコフスキーの演奏は確実に伝統が続いているのだろう。

1812年のオーストリア初演はマーラーだったらしい。
そういったところにも、自分が思っている以上に歴史の面白さがある。




[image/air_ : 細越一平]


TSUKUBA SAXOPHONE QUARTET 

2009年03月15日 23:49

Tsukuba Saxophone Quartet (TSQ) concert 終了しました。

たくさんのお客様にご来場いただきました。
本当にありがとうございました。

たくさんの想いの詰まったコンサートでした。


学生の時に、一緒に音楽をしていた仲間からも、電報や花束が届きました。

いつの間にか、12年が経っていたことを感じました。

僕の演奏自体は反省と課題が山のようにあるものでしたが、だからこそまた、音楽をしようと思えるのでしょう。



プロであれアマチュアであれ、演奏に関わるものとして、それは音楽にこそ捧げられるものだと思います。

けれど。


音楽に関わることで、その本人たちが祝福されることがあっていい。



アンケートで、「TSQが休止するなんてもったいない」、「ぜひまたTSQの音楽を聴けることを楽しみにしています!」という言葉がたくさんありました。


アルスの満席の拍手は、君たちに出会えてよかった、その音楽に出会えてよかった、という拍手です。




おめでとう。そしてありがとう。





そして、またいつか。





は、創りますか。





[image/air_ : 細越一平]


チャイコフスキー「交響曲第5番」、憧憬と渇望。

2009年03月14日 01:11

憧憬と渇望。


チャイコフスキーに関して、それは愛か、信頼か、青春か、それはわからない。


交響曲第5番に垂直的な時間は存在しない。
僕は、交響曲に不可避なある種のドラマトゥルギーもないと思っている。


もちろん形式的には申し分ないほど古典的なもの(スケルツォがワルツになっているが)であるが、音楽はそこにはとどまらない。


ストーリーテラーであるチャイコフスキーはある手紙のなかで、この作品について「こしらえものであり、不誠実な作品」と述べたとされる。

チャイコフスキー本人ですら、この音楽からほとばしるものに、手を持て余していたのかもしれない。



交響曲第5番にある時間は、あくまでも点としての凝縮された時間だ。

それは、人間の精神状態と似ている。


目の前にある現実的な情報、片隅に残され時たま顔を出す記憶、そしてふとしたことでリンクする白昼夢。
それらのチャネルは明確に分けられているようでいてそうではない。


誰しも、眼を開いたまま思いがけず空想の世界にいたことがあるはずだ。
それはほんの一瞬のことかもしれないが、時間も空間も解き放たれ、現実からも肉体からも繋がりのない世界にいたことがあるはずだ。


しかしそれは無意識ではない。あくまでも個としての自分自身の主格の精神と結びついている。

夏目漱石が<半意識>と呼んだ世界と似ているとも思う。



憧憬と渇望と、僕は書いた。



僕にとって、その全ては音楽なのだ、と思う。

チャイコフスキーの交響曲第5番は、だからこそ今の自分を、根底から揺さぶり続けるのだ。

はじまりの暗澹たる響き、第2楽章の、いくら手を伸ばしても掴むのできない何者かへの強い憧れ、現実とも空想ともつかない華やかさと悲しみ、そして喜びの爆発。



今ようやく、音楽のそばまで戻ってきた。

想いは憧憬と渇望のままに、そのステージを創らねばならない。



あのコーダには、確かに「今ここで」音楽を奏でる喜びが詰まっている。


今日の演奏に、少しでもその想いを表現できたらと思う。




[image/air_ : 細越一平]


チャイコフスキー中毒。「私」の拡張、交響曲第5番。

2009年03月13日 05:37



最近はもっぱらチャイコフスキー中毒である。

来月で三十路突入という時節で、ついに始まってしまった。

それも交響曲第5番を延々と聴いている。

文字通り取り憑かれたようだ。




基本的に音楽は雑食派だが、チャイコフスキーとショパンだけは好まなかった、というか嫌悪していた。

甘ったるいような、重苦しいような、自意識過剰でおセンチで、いうなれば<ロマンティックの権化>のような音楽。

今思えば、往々にして演奏のイメージもあるのだろうが、言葉にするとそんな感じの音楽である。

かたや十代の僕は、そういったものから出来るだけ離れたいと思いつつ、大学の宿舎の五角形の部屋で、煙草を吸いまくりその煙に透かして世の中を斜に構えて眺めながら、朝から晩までウイスキーを抱えていた。




チャイコフスキーの音楽には、日常とはかけ離れた、精神世界の時の流れがある。

想像するに、人生の壮年、記憶とも違う、時間の堆積層が面ではなく点で捉えられるような、、、その流れはとても自由で、軽やかで、しかし常にある重力に捉われている。

その重力とは、決して逃れることのできない、「私」という主格の存在である。




「人生の縮図」とも言われる交響曲第6番が、絶えざる悲しみと見果てぬ夢との葛藤に対峙する「私」を通して語られる。

「イタリア奇想曲」は、言い知れぬ狂気を、イタリアへの旅行でなんとか振り払おうとする「私」の懊悩であるし、「懐かしい土地の思い出」もまた、郷愁と青春をないまぜにしたような「私」の素朴な一人称に感じられる。

「くるみ割り人形」にしても、たゆたうような夢の時間軸のなかで展開される<何処にも行かない>物語は、クララというフィルターを通して語られる「私」の記憶の世界。




では「私」とは誰なのか。

それは紛れもなくチャイコフスキーその人である。

しかし彼の「私」は拡張され、余りにも広義で深淵であり、聴き手のなかの「私」をも侵食してくるのだ。

彼の音楽に「向かい合う」とき、それは彼の音楽の内面に「入り込み」、「ひとつとなり共鳴する」瞬間でもあるのだ。




交響曲第5番。

ここで聴かれる「私」は、憧憬と渇望の渦の中にいる「私」である。



そしてまさに今、僕はそのただなかにいる「私」を感じている。





[image/air_ : 細越一平]

<新しい耳> テッセラの春音楽祭続報②

2009年03月13日 00:01

テッセラの春音楽祭のチラシ画像が届きました!

tessera1


tessera2

明日のコンサートにも挟みますが、

「ここに置いたらいい!」

「ここに挟んだらいい!」

というヒントある方教えてください!

何処にでも行きます!



[image/air_ : 細越一平]


創造の過程に グレン・グールドの音楽17

2009年03月12日 01:11

1 スタジオ――孤独の可能性と拡がり


 <コンサートは死んだ>という言葉が生んだ議論の渦を飄々とくぐり抜け、グールドはレコーディング・スタジオでの孤独を楽しんだ。
 無思慮な聴衆や劣悪なホール、そして歴史的聴覚の記憶しか持たない批評家に、彼が捧げるものはなかった。
 彼の演奏は音楽にのみ捧げられ、加えるならば作曲家にすら捧げられるものではなかった。
 CBSのある責任者は「あなたのなかで私が好きなのは、これから先あなたがわれわれに何を残してくれるのか、あまりよくわからない点ですね」(モンサンジョン)と述べたという。
 グールド自身にも分かっていたかは疑わしい。
 けれども、彼は目下レコーディングしている最中の音楽について、何が必要であるかは十分に認識していた。


 カナダ放送協会での初のラジオ・コンサートののちに渡された録音盤とともに、「マイクロフォンと恋に落ちた」(GGR)このピアニストを、デニス・ダットは「音楽録音の哲学者」(GGPW)と呼んだ。
 彼はレコーディングのテクノロジーについて、同時代の音楽家なかでは群を抜いて研究していたし、それが音楽の領域に侵入してくるのにも全く抵抗はなかった。
 むしろ、自らの表現、、そして演奏概念を拡張するものとして、テクノロジーを積極的に取り入れようとしていた。


 グールドの表現を発表する場として、レコーディングは最大限に活用された。決してピアノの性能に寄り掛かることなく、ダイナミクス・レンジの繊細な変化や細分化されたアーティキュレーション、微妙なリズムの揺らぎといった極度にコントロールされた表現を正確に伝えるためには、2000人を集めるコンサートホールでの演奏は不可能である。
 そのような状況下で、果たして『パルティータ第1番変ロ長調 BWV797』の初めのあのコード、限り無く静謐な場所からもたらされる変ロ音と変ニ音の長三度は聴こえただろうか? 
 グールドの研ぎ澄まされたピアニッシモは、それでも決して明晰さを失ってはならない性質の音楽だった。

 「明晰性、即時性、そしてまさに触れんばかりの近接感のあるサウンド」、つまり「2世代前なら専門家も手に入れられず大衆も欲しがらなかったような性格のサウンド」を「何よりもまず今日の聴き手は」求めるようになったとグールドは書いているが(GGR)、それはそのまま、グールドが欲した性格のサウンドだった。




[image/air_ : 細越一平]

<新しい耳> テッセラの春音楽祭続報① 第1夜 <原田敬子の耳?直感力?>

2009年03月11日 01:53

先日ご紹介した<新しい耳>テッセラの春・第4回音楽祭のプログラムが届きましたので、続報です!


まずは3夜のうちの第1夜です。


<原田敬子の耳 ?直感力?>


シャリーノ:「フェニキアのイメージ」(2000/2004 鈴木俊哉版)
ケージ:「トイ・ピアノのための組曲」(1948)
原田敬子:「零刻」(2005/08)リコーダーと琴のための(日本初演)
原田敬子:「NACH BACH」(2004)より抜粋 ピアノ独奏
尹伊桑:「ピアノ三重奏」(1972/75)
ウストヴォルスカヤ:「ピアノ・ソナタ 第5番」全10楽章(1986)
ベルク:「作品4」より5「ここに平和が」(1917)ベルクによる室内楽版


音には具体的な力はない。わかっているはずなのに、インスピレーションや音の魅力を知る作曲家たちは人生を創作に捧げてきた。音に存在の必然を与える創造的直観はどこからやってくるのだろう? そしてここには、作曲家の内的世界を聴き手に拓いてくれる優れた演奏家の存在が不可欠だ。常に現代の作曲家たちと密に仕事を積み重ねてきたベルギー在住の大宅裕(ピアノ)と、世界最強のリコーダー奏者・鈴木俊哉、琴の新たな可能性をドイツから世界に伝え始め国際的に注目を集めている菊池奈緒子、そして21世紀を担う意欲的な弦楽器奏者、富永佐恵子と中澤沙央里を迎え、亜流でも模倣でもない独自の語法で知られる作曲家たちの直観力に迫る。(原田敬子・企画・作曲・トーク)


2009年5月15日(金曜日) 午後7時開演
会場:サロン・テッセラ 03-3421-0541 
各夜70席限定
チケット申し込みは アレグロミュージック 03-5216-7131

主催:テッセラの春・音楽祭実行委員会




曲目や作曲家について、今後紹介していきます。
非常に魅力的で「強力な」プログラムになっていると思います。

70席と限られた空間のなかで、コンサートホールではおよそ味わうことのできない、作品の繊細な響きや、機微に富んだニュアンス、極限まで研ぎ澄まされた集中力が、私たちの耳に忘れかけていた音楽の息吹を与えてくれる、そんな予感のするコンサートです。

個人的には、以前大宅裕さんに、本番前日になって急遽演奏をお願いしたケージの「トイ・ピアノのための組曲」が聴けるのもとてもうれしい!
あの時は近所の楽器屋さんの娘さんのトイピアノを半ば強奪しましたが、今回は大宅裕さんの自前のトイ・ピアノが来るのでは、なんて思っています。




[image/air_ : 細越一平]

創造の過程に グレン・グールドの音楽16

2009年03月10日 23:06


第3節 Glenn Gould on recording



 時間も空間も無きもののごとく、彼はピアノを弾きに来るのだから。
 たとえそれが私達のためでなくとも。(『27歳の記憶』映画パンフレットより、矢野顕子)



 現在(といっても彼がコンサートホールから姿を消した38年前から状況は変わらないが)、われわれがグールドのピアノを聴く手段は、録音に頼るしかない。
 グールドに寄せた矢野顕子のこの文章は、けれども、不在の存在ともいえる状況をよく表してはいまいか。

 グールドは(既に)いない。

 だがオーディオシステムを通して、彼は常にその演奏を聴かせてくれる。
 不特定多数の聴き手に向かって、彼はピアノを弾き続ける。
 そのサウンドはあたかも彼が目の前にいるような錯覚を引き起こすが、もちろん実存することではない――それはまるで音楽そのもののようだ。
 もしかしたら、彼は実在しなかったのかもしれない。そんな印象すら抱かせる。

 彼の80枚近くの録音を(没後にリリースされたものも含めて)、遺産ということを、彼は望まないだろう。
 自らの金銭的な遺産(そのほとんどが株によって得たものだったといわれる)の全ても、遺言によって救世軍と動物愛護協会に寄付したくらいだ。
 なにより彼は、パッケージングされた録音、そして音楽は、時間や背景、そして演奏者からも引き離されることを望んでいた。

創造の過程に グレン・グールドの音楽15

2009年03月09日 23:31



 彼は、批評家を含む聴き手の伝統的な耳の記憶すら否定しようとしていた。

「ぼくのモーツァルト録音から生まれた恐怖と叫びだが(略)ぼくには恐ろしく奇妙に思えたね。なぜって、批評家たちが反応しているのは、彼らの聴覚上いままで養ってきているある種の期待に答えているかどうかだけだからだ」(コット)。

 グールドはこうも書いている。

「(批評家は)自分の主観的判断の根拠とすべき確固たる基準もないし、自分の判断の反証となる歴史的先例はあっても、弁護すべき判例はない」**。

 グールドは強制されることを嫌った。
 ときに伝統的な解釈と似た演奏になることがあったとしても、それは自らのなかで何らかの決着が計られたのちの産物でなければならなかった。

 高橋悠治がグールドの演奏の特異性について述べている文章は、グールドと伝統的解釈の違いを、無意識に示している。
 ここまで、グールドについて<解釈>という言葉を使ってこなかったのも、この文章に寄るところが大きい。


 
 グールドについていえば、かれの「解釈」は作品の伝統的な形式や作曲家の「表現」を伝達することとは関係がないから、解釈ではないのだ(高橋悠治「バッハとグールド」)。




 シュネーデルは、「譜面は彼にとっては演奏解釈のパラメーターのひとつでしかない」という。
 
 楽器の特質やホール(スタジオ)の音響状況、ピアニストの意図といったものが同様に、グールドの演奏に関してはパラメーターであり、それらの複合的な産物が演奏になると。
 果たしてそうだろうか。これに関しては疑問を挟む余地があろう。
 
 確かにグールドは、楽器の性質等からテンポを割り出す時はあった。
 「いつだってぼくにとって、テンポは相対的に異質の物、一機能に過ぎない」として、モーツァルトの『ピアノ・ソナタ第10番 ハ長調 K.330』のふたつの録音のテンポの違いを、用いたピアノの違いに根拠づけている(コット)。


 ただし、先にも見てきたようにあくまでも物理的な要素に過ぎないピアノはグールドに従うことはあっても、グールドがそれに従うことは稀であった、ホールの音響状況にしても同様である。
 自らが選択することのできないピアノとホールの環境を押し付けられるコンサートは、そういった意味でもグールドにとって苦痛であったと推測できる。
 自らの理想とする音場環境を作り出すことに労を惜しまなかったグールドが「もっとも母胎のなかにいるのに近い体験」(シュネーデル)といったレコーディング・スタジオに籠ったのは、当然の選択であった。



**GGR2「グレン・グールド、グレン・グールドについてグレン・グールドにきく」のなかで、グールドは2人のグールドの問答のなかで、ユーモラスながらも、「批評家とは道徳的に危機に瀕している種族」であると認めている。

コーダ。

2009年03月08日 21:30


音楽はどうして留まってはくれないのだろう、と思う。


音楽は時間と結びついているという点で、その自己同一性を強くしている。


それは必ず過ぎ去る。




音楽に感じる幸福感は、だから焦燥感と隣り合わせだ。


コーダはいつも足早に、われわれの前から立ち去る。



音楽のただなかにいると、その意味など感じることなどできない。


響きに身を委ね、時に抗いながらも。


そのいのちをもっと輝かせよという声が聴こえる気がする。



TSUKUBA SAXOPHONE QUARTET

2009年03月07日 10:08

再度、来週に迫った演奏会の宣伝を。



Tsukuba Saxophone Quartet
SAXOPHONE CONCERT Vol.3



つくば市アルスホール
2009年3月14日(土) 
開場19:15 開演19:30


曲目:
G.ロッシーニ - チェロとコントラバスのための二重奏曲
M.ブンス - ウォーターウィングス(日本初演)
A.マルチェロ/波多江史朗 - 協奏曲(独奏:渡瀬英彦)
D.マスランカ - レシテーション・ブック 他


客演:渡瀬英彦(フルート奏者)
メンバー:中村千紗(S.Sax.)、坪川理美(A.Sax.)、栗林肇(T.Sax.)、橋本望(B.Sax.)
ゲスト:東克也(Piano)、海農理絵(Piano)、細越一平(T.Sax.)


問い合わせ:
Tsukuba Saxophone Quartet


後援:日本サクソフォーン協会、筑波大学吹奏楽団







僕が演奏するのは、ロッシーニだけです、念のため・・・
他は難曲(かつ魅力的な楽曲)ばかり・・・
僕が手出しする余地はありません。






本格的なコンサートに参加するのは、6年ぶりになる。
もちろんその間、楽器など触らなかった。

最後に吹いたのは、ジョン・ケージの『FIVE4』・・・

今は、不安と新鮮さとが渦巻く、不思議な感覚。





そもそもこのコンサートは聴きに行くつもりだった。

大学では出会うことがなかった後輩が、築きあげてきた響きの残照を、全身で受け止めたいと思っていた。


学生の頃、僕らも tse という名のコンサートを何度か開いた。

もちろんその頃と今とでは、音楽的にも技術的にも比較にならない。


ただ、下手でも不器用でも一から何かを創り上げていく歓び(とそこに至るまでの葛藤や苛立ちや軋轢や悩みや挫折や悔しさや、理想や憧れや夢や現実)が、その tse という名前に詰まっていた。


少なくとも僕のなかで tse という名前は、ひとつの原点だ。





ありていだが、「やりきる」という感覚はすごく大事だ。

僕は tse の3回目のコンサートで、「やりきる」という経験をした。

吉松隆、マイケル・ナイマン、ミヨー、ロイド・ウェバー、他。
演奏会はもちろん課題と反省ばかりだったが、だからこそ未練なく次に進むことができた。

6年間、楽器をほとんど吹かなかったのも、そこで何かを置いてきたのかもしれない。



けれども。

その余韻は確実に何処かで響き続けていたのだと思う。



来週の舞台は、再びつくばアルスホールだ。

これで、本当に最後。





大学を卒業して、入れ替わりのような形で二人の後輩が入ってきて、そんな二人と今回同じ舞台に立てることを誇りに思う。


数々のコンサートを積み重ね、全国大会にも出場し(しかも2回も)、初演作品も難曲も演奏し、サクソフォーン協会に論文を投げ、プロアマ問わずにサックス吹きで知る人ぞ知るブログを運営し、ステージでラジカセと共演し(今回はコンピュータと共演するらしい)、自動作詞作曲マシーンなどを作ってしまう二人。

そんな二人も、4月から筑波を離れる。


そのときに、間に合ってよかったと、心から思っている。



確かな祝福が、今回の余韻にも生まれますように。



ブログの名前を変えてみた。

2009年03月07日 09:19

まだ暫定ですが。。。


今後とも変わらぬご贔屓を。





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