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韓国へ行く友人たちへ。

2009年04月30日 23:27


佐藤智哉をはじめとして、僕の大切な友人たちが、韓国に演奏しに行く。


 さぁ、韓国へ行こう。
  image/air_BLOG より


文章から、体験としてたくさんのことを糧にして本番に望む、喜びや不安や寂しさや気概のような気持ちが伺えて、なんだか嬉しくもちょっと悔しいというか羨ましいというか、そんな気持ちになりました。


心からの素晴らしい演奏ができますように。


そして、お願いだから豚インフルエンザにだけはかからぬよう。



[image/air_ : 細越一平]


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墨田ぶらり下町音楽祭とテッセラの春音楽祭、はないちもんめ、本気。

2009年04月29日 03:40

先日こちらのブログでも紹介させて頂いた、墨田ぶらり下町音楽祭


天真庵さんのブログで、墨田ぶらり下町音楽祭のなれそめを拝見しました。
 記事はコチラ→墨田ぶらり下町音楽祭


利害得失ではなく、「こんなことをしたら楽しい」と思う人たちが、
昔やった「はないちもんめ」みたいに、横に手をつなげて、やさしさ
を広げていけば、「勝ってうれしい・はないちもんめ」よろしく、新しい
未来が開けていけるのではなかろうか。
  (天真庵さんのブログより)


「ぶらあぼ」で連載されている、「オトナになるには?」という記事を思い出しました。
4月号201ページ、<Happy Tune>(廻由美子さん寄稿)。


5月に行われる、墨田ぶらり下町音楽祭テッセラの春音楽祭の間には、何処か繋がるものを感じます。
それはもしかしたら、<失ったものを取り戻す>という作業なのかもしれません。

そして、共通するのは、心ある人が本気になって動いている、ということだ。


チケットわずか、とのこと、テッセラの春音楽祭と含めて、5月はお祭り騒ぎです!



[image/air : 細越一平]

 関連する記事
  墨田ぶらり下町音楽祭
  <新しい耳> テッセラの春音楽祭続報?
  速報!「新しい耳」テッセラの春・第4回音楽祭
  <新しい耳> テッセラの春音楽祭続報? 第1夜 <原田敬子の耳?直感力?>
  <新しい耳> テッセラの春音楽祭続報? 第2夜 <友光雅司?大地のリズム?>
  <新しい耳> テッセラの春音楽祭続報? 第3夜 山根孝司/野口美千光/宮坂拡志/廻由美子 幻覚?ストラヴィンスキーとメシアン?>

ケルト音楽、the humours of Tulla、ラ・フォル・ジュルネ。

2009年04月28日 22:40

たまたまi podのなかに入れていたケルトトラディショナル・ミュージックのなかで、"The humours of Tullas"というReelがあって(実はPatrick Streetの"Music For A Found Harmonium"と同じアルバムに入っていた)、昨日からそのへん近辺の音楽を聴き続けている。

今や完全に市民権を得ている「アイリッシュ」や「ケルトの」音楽。
リズムの愉快さ、繰り返される親しみやすいフレーズ、使われる楽器の独特の優しい(手作りの)音色、それらが醸し出す、生きる歓びに溢れた音楽・・・その魅力は、聴く者の心を、時には駆り立て、時に包みこむ。




"The humours of Tulla"

youtubeで見つけた動画のなかで、大御所チーフタンズのものなどもあったのだが、なぜかこの演奏に胸を鷲掴みにされた。
理由は分からない。Linnane School of Irish Musicという団体も分からない。とりあえず若い人たちがやってるみたい。
理屈抜きに、その音楽のひたむきさに、感動した。




おまけ。これもヤバい。泣ける。理由は分からない。



こういう音楽やりたい!と思って探していたら、こんなサイトを見つけた。

The Session

楽譜からCDから、かなりのデータベース。
ABCフォーマットってのがあるらしい。
なんだか邦楽の「弦譜(いとふ)」のようで親近感がある。



人の営みの積み重ねが歴史になるように、音楽も全て歴史がある。
クラシック音楽も、ヨーロッパの一部分のトラディショナル・ミュージックだ。



明日からゴールデン・ウィーク。

今年はラ・フォル・ジュルネに全く気が進まない。
行かないかも。

とおもったら、さりげな?く、勅使河原三郎無伴奏チェロで踊るという・・・
あまのじゃくを憎みます。

激しくいきたい泣



[image/air : 細越一平]

 関連した記事はこちら 
  Music for a found Harmonium
  シカゴ交響楽団来日について思うこと、1%神話?、ラ・フォル・ジュルネ、野村ホールディングス赤字
  仕事とは。<ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2009>に思うこと、モンスター。

ジョン・ケージに関してのリンク、リアルタイム11ケージ(リ)ミックス、高橋悠治、ケージの音楽と<生>。

2009年04月26日 04:43

ジョン・ケージについていつも拝見しているサイトがいくつかあるので、ここに付記させていただく。


John Cage Online
恐らくはケージ関係では地上最強。you tubeの動画なども逐一リストアップされているのが凄い。
中でもお勧めは、1960年にケージが実際に出演して演奏(?)したWater Walkの動画ケージに難解さを見る人も、これを観たら絶対好きになると思うなー。


JOHN CAGE 
ポール・グリフィスの著した『ジョン・ケージの音楽』(青土社)の訳者である、堀内宏公氏によるサイト(musicircus内)
ケージの代表作品と創作の変遷、またその思想的な背景やケージの言葉などを精緻に記述されている。


エッセイ:ジョン・ケージ
飯村隆彦のメディア・アート所収。長文だが、『4分33秒』についての初演時の様子など、ケージの言葉は示唆とユーモアに満ちている。



彩の国で一度、高橋悠治さんとアキさんによる、ケージ作品の演奏会に行ったことがある。

"Winter Music"が全体を通して演奏される中、一方ではケージの作品が同時に演奏されていくという試み。
これはライブ録音でCDになっていた。2001年11月24日だったらしい。ずいぶん経った。今となっては稀有な機会だった。と同時に、音楽体験は常に稀有なものであるはずだということを再認識する。



堀内氏は、ケージのチャンス・オペレーションの実演に立ち会う経験は特別なものであると言う(『自然(フト)聴いた《ローツァルト・ミックス》』)。

いま、ここに、あるということ。そのことを受け容れるために、哲学や観念の技術にたよるのでなく、いくつもの中心が同時に存在していることを、状況のなかで実際に行動し、振る舞い、身体的な体験として知ること。それこそ、ジョン・ケージの思い描いた音楽の可能性だと思います。


まさに彩の国で聴いたケージの音楽も、そのことを感じさせるものであった。僕は聴き、はじめ聴覚情報(プラス視覚情報)を頭で理解しようとしていたがすぐ止めた。あるがままで受け入れること、意味や価値を与えようとするのではなく、自分も参加している体験とすること以外に、今眼前で起こっていることを捉えることはできないと感じた。

そしてそれは結局、<生きる/生きている>ということと同義なのだとも。

だからケージの音楽は、われわれにとって、生きるということ、すなわちある冒険の体験なのだ。



[image/air : 細越一平]

テッセラの春音楽祭初日では、ジョン・ケージの『トイ・ピアノのための組曲』が演奏されます!
 <新しい耳> テッセラの春音楽祭続報? 第1夜 <原田敬子の耳?直感力?>

 速報!「新しい耳」テッセラの春・第4回音楽祭

 <新しい耳> テッセラの春音楽祭続報?

ジョン・ケージに関連した記事
  ジョン・ケージを携えて、街に出よう。

  ジョン・ケージ「サクソフォン作品集」

閑話休題。

2009年04月25日 22:45

ついに満員!


観にいきたかった・・・!!



モンテディオ山形、ホームで鹿島に1―1ドロー!!



二十歳のころの覚え書き、石を石らしくするために。

2009年04月25日 00:34


20歳前後の時に運営していたサイトの記事を読み返していたら、コンテンポラリー・ダンスに触れた際に感じた衝撃について書いた文章を見つけた。
そこに、自分の「芸術観」のようなものがあった。とても気負った文書だが、確かに今に通じる原点があるようにも思えたので、自分への覚え書きとしてここに転載させていただく。



芸と芸術を判断するひとつの基準として、大江健三郎の方法論、つまりロシア・フォルマリズムの理論に立ち返ることにしている。その代表的な理論家シクロフスキーのいうところによれば、生活の感覚を取りもどし、ものを感じるために、石を石らしくするために、芸術と呼ばれるものが存在しているのである。

芸術の目的は認知(знававие、ウズナヴァーニェ)、すなわち、それと認め知ることとしてではなく、明視すること(видение、ヴィジェニエ)としてものを感じさせることである。また芸術の手法(приём、プリヨ?ム)は、ものを自動化の状態から引き出す異化(остранение、オストラニェーニェ)の手法であり、知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形式の手法である。これは、芸術においては知覚の過程そのものが目的であり、したがってこの過程を長びかせる必要があるためである。芸術は、ものが作られる過程を体験する方法であって、作られてしまったものは芸術では重要な意義をもたないのである。



やっぱり山口昌男を読み返そうと決意した。今確実にその時期にある。



[image/air : 細越一平]


ジョン・ケージを携えて、街に出よう。

2009年04月24日 23:18

ジョン・ケージを携えて、街に出よう。





John Cage "FIVE"

音楽という存在を突き抜ける、<音>に対する感覚に気づかされる、そんなケージの音楽はまた、生きるということが、<今>という瞬間の連続であることにも気づかせてくれる。



[image/air_ : 細越一平]


 関連した記事 ジョン・ケージ『サクソフォン作品集』

「演奏の哲学」補足。

2009年04月23日 01:28


先日ある人から、「演奏哲学」という連作は終わったのですか?というメールを頂きました。

ありがとうございます。終わってません(笑)


当初このブログを始めるにあたって、音楽に対する論文をひとつ、メインコンテンツにしようと考えていました。

それが、グレン・グールド(とアーノンクール)の演奏と、音楽に対しての拙稿「演奏哲学」です。


本来は僕の大学の卒業論文で、データがなくなっているので、改めて打ちこんでいます。
単にコピペするのではなく、「打ち直す」という行為によって、自分自身の時間を取り戻す作業をしている感覚があります。脳みそを更新していくような・・・


そういった事情もあり、引用文献の記述(それに関しては、今後まとめて全てを掲載させて頂く予定です)以外はほとんど改変していません。

あくまでも自分の音楽に対しての思考をなぞるような作業です。


近い将来(といってももう三十路ですが)、おそらく6年後くらいだと思いますが、僕は一度集中して学び直す時期が来ると思っています。

それが国内なのか、大学などの研究機関なのか、それとも在野で実地なのかは決めていませんが・・・その時に再度、この論文は書きなおすべきだと思っています。
(もしかしたら終章だけは書き換えるかもしれませんが)

現時点では、そのままにするということが正しい気もしています。


実際ブログを書き始めていくと、様々他に書くことが出てきて(ありがたいことです)、この論文自体が途切れ途切れになってしまい、実際打ちこむのも追い付いていない状況だったりして、読み手無視のような状況ですが、今後アーカイブとしてブログもしくはウェブサイトに格納しておく準備を始めています。
そんな大層なものではないのですが(期待して頂いている方がいたという事実だけでも驚きだったり)。


大層ついででいえば、「演奏哲学」という大見栄の表題を付けていただいたのは、当時の指導主査であった中田光雄教授です。。。


学生のころ、陶酔していたジャンケレヴィッチという哲学家について卒論を書こうと思っていた僕は、中田先生から「実は僕はパリでジャンケレヴィッチが先生だったのだ」との言葉を頂き、逃げだしたくなったことを覚えています。



そして、一見朴訥とした哲学者のような中田先生が、講義でもっともよく使っていた言葉は<気概>というものでした。


僕は決して良い生徒ではありませんでしたが、<気概>という言葉の重みだけは、胸に携えているつもりです。

ありがとうございました。



[image/air_ : 細越一平]

そしてもうひとつのことば、母と電話、「プロフェッショナル」、this is my life.

2009年04月22日 00:10

誕生日おめでとうメールで、中学2年生の、一番大切なともだちに貰った言葉。

居酒屋の店長だった時に、よく仲間やお客さまにおくっていた言葉。




「かみさまは あなたに乗り越えられない壁なんて つくらない」


flower4



母と電話をする。
4か月ぶりに話をした。


どんなことでも、そして今でも、応援してくれる人がいる。

そんな人たちに報いるためにも、自分が今やるべきことを、やりきらねばならない。

ありがとう。




NHKで「プロフェッショナル」を観た。

紛争地域の武装解除のために仕事をする、瀬谷ルミ子さんの話。

「やらない言い訳をしない人が、プロフェッショナル」という言葉。

何より響いたのが、彼女がスーダンの貧しい地域で奔走した、軍を除隊出来ず希望を失った少年の言葉。

彼女は少年のために軍や警察のトップに直接交渉しに行く。

少年は除隊することはできなかったが、学校に行くことは認められる。しかしその先どうなるかはわからない。

瀬谷さんは、不安がっている彼に告げる。
「私には、アシストすることしかできない。どうするかは、あなたが決めなさい」

少年はその言葉に、こう答えていた。


「僕がやるべきことは分かっている。これはあなたの人生じゃない。

 これは僕の人生なんだ(THIS IS MY LIFE)」




[image/air_ : 細越一平]


忘れていたことば。

2009年04月21日 04:23



夢は、口に出した瞬間から叶う(叶っている)という。

そして、言葉にして、形にして語り続けること。

自分の言葉を一番よく聴いているのは、自分の耳だ。



ひとはしあわせになるために
そしてひとをしあわせにするために 
うまれる



そんな自分の信念を、いつの間にか口にしなくなっていた。



行動しないことは、思っていないことに同じ。



諦めなければ、夢は叶う。
けれど、それを掴むのは自分自身。



あるがまま、一歩一歩、小さくても確実に進む。
そして、進み続けること。



30才になった。

今年は勝負の一年になる。

決して気負わず、しかし必ず成果を作らねばならない。

そんな覚悟と信念で臨む一年。



出会ってくれてありがとうの気持ちを忘れずに。



[image/air_ : 細越一平]


桑田圭祐。

2009年04月20日 23:34


かっこいい・・・


こんな50代になりたい。


国立新美術館に思う、ルーブル美術館展。

2009年04月19日 23:49


先日の上野に続いて、国立新美術館ルーブル美術館展を観にいく。

黒川紀章氏の建築物は、初めて観た時から変わらない印象。
なんというか、小さい。
確か、「森のなかの美術館」みたいなコンセプトがあったような気がするが、こじんまり、というか、慎ましい、というか。
内部の不可思議な構造(やたらせまっこいロビーのトイレ)も、それでいて違和感を持たせないというか、現実感のないまま野に投げ出されたというか・・・


ハードにばかり依存する、結局はただの貸しハコ。
建築物自体がイデオロギーや思想を持たず、主義主張を持たず、それでいて寄る辺もなく、それでも生きることを余儀なくされる。


今回半年ぶりくらいに中に入って気づいたことは。
われわれ日本人と、日本人が置かれている<文化>、もしくは<文化装置>の状況と似ているのだ。

つまりは、希薄さと軽率さ、そして70年代以降変わらず失われ続けている中心の空洞化、ということである。


美術館を出て六本木に向かう途中の、青山墓地の言葉を発せぬ存在感とのコントラストが、とても印象的だった。



<美の宮殿の子どもたち>と名付けられた今回のコレクション。

様々な問題を投げかけられた。
問いかけ、といったほうが正しいか。

そもそも<美の宮殿>という名前から、訝しさを感じられる大人になりたい。



気になった作品など。

「子どもを抱く女性の小像」
「角形の容器(哺乳瓶?)」
「墓碑を背に座る母親と三人の子」
「子どものトゥニカ」
「靴」
「書字板」
「生徒のノート」
「台車に乗ったハリネズミ」
「ゆりかごの中の赤ん坊をかたどった鈴」
「少女のミイラと棺」
「少年のミイラマスク」
ジャン・シメオン・シャルダン「食前の祈り」
ニコラ=ベルナール・レピシエ「サヴォワの少年」
ヘンリー・ピアース・ボーン「風景の中の少年の肖像」
ジャン=バティスト・ドフェルネ「悲しみにくれる精霊」
ジャン=フレデリック・シャル「生のはかなさへの思い」
ジャン=バティスト・ルイ・ロマン「無垢」
「夫婦と子どもの像」
ペーテル・パウル・ルーベンス「母と二人の子どもと召使」
フェルディナント・ボル「山羊の引く車に乗る貴族の子どもたち」
ジャック・フランソワ・サリ「髪を編んだ少女の胸像」
ジョシュア・レノルズ「マスター・ヘア」
ピエール=ジャン・ダヴィッド・ダンシェ「テレーズ・オリヴィエ」
ペーテル・パウル・ルーベンス「少女の顔」
「神の家族」
「子どもの太陽神の小像」
「裸で座る少女」
ドニ・フォワヤティエ「アモール」
「聖母子の小像」
「子どもの音楽家のフリーズ」
デュショワゼル「アモール」



なんとなく、美、というひとくくりにするのではなく、人間の営みの結果としての<知>の堆積を感じた。



現代のわれわれ(しかも日本)が抱いている<子ども>の総体的なイメージと、時代や国や歴史によって<つくられた><子ども>のイメージは全く違う。

そこから文脈立てていくと、想像力の可逆性というか、観る者の視線ではなく、作品からの眼差しから顕わされる<何者か>が、より感じられやすかったようにも思われる。


冒頭のあいさつ文に、「子どもとは様々な問題を孕んだテーマであり云々」とあった割に、何処となく画一的というか紋切型の展示になってしまった印象も。



行きたいなあ。現地。



[image/air_ : 細越一平]
(2009/04/20追記)

Bloomをiphoneに入れてみた、ブライアン・イーノ、RjDj、サックス練習。

2009年04月18日 03:13


リリース当初に、キン肉マンばりに「オワ?」とのけぞった<Bloom>を、思いだしてダウンロードして、iphoneに入れてみた。


bloom


Bloomは、かのブライアン・イーノが製作したiphone用の音楽アプリ。

イーノBloomについて次のようにコメントしている。


"Bloom is an endless music machine, a musicbox forthe 21st century.
You can play it, and you can watch it play itself."



他にも音楽関係のアプリをいくつかおとしてみた。

RjDj Album、RjDj Shake、Jasuto、など。

感想はいじってみてから・・・

しかし。


NHK教育で放送している声楽のリサイタル(イアン・ボストニッチはオペラシティに聴きに行った)を眺めながら、明らかに音楽に対する接し方は変わってきているのだろうと思う。


Bloomが局地的にせよかなりの衝撃を及ぼしたのは昨年だが、確かにBloomは、音楽を直感的に(なんら知識などを必要とせずに)<触れる>事ができて、しかも非常に音楽的な<作品>であると感じた。


知識や教養、それに伴う鍛練や経験(そしてもしかしたら人間という存在までも越えて)を介せずして、現代に生きる私たちは、新しい音楽を手に入れつつあるのかもしれない。


もちろんそれは、クラシックのような知の集積であり、しかし人間の感情を根幹から揺さぶるような音楽を否定するものではないのだが、CDのジャンル分けよろしく、聴き手は明らかにセグメント化されているのは拭い様のない事実であろう。


けれども、そういった音楽も、しっかりと届きさえすれば。


そんな希望はもちろん捨ててはいない。



といいつつ今日はBloomに首ったけな一日になりそうです。

やっぱりイーノ好きだわ?。



今日は弦巻区民センターでサックスの練習。

世田谷サクソフォンクラブ(仮)として、やっと区民施設に辿りつけました(笑)



[image/air_ : 細越一平]

創造の過程に グレン・グールドの音楽20

2009年04月17日 22:37


 グールドのテープ編集への過激な言説(「今日のレコーディングの大部分は、最も短くて20分の1秒、それ以上のさまざまな長さの断片テープを集めたものである」(GGR)云々)は常に議論の的になってきたが、バザーナによれば、「グールドのテープのスプライスは、他のピアニストたちより多いことはなく、スプライスするのは手段であって、ミスタッチを直すことは少なかった」(GGPW、グールド自身や、共演した音楽家、音楽プロデューサー、エンジニアの証言から)という(スプライスとは<接合>といった意味で、テープ動詞をつなぐ録音編集技術)。

 そのような姿勢は、グールドが度々言及している『平均律クラヴィーア第1巻第20番イ短調BWV865』のフーガ録音のエピソードに表れている(GGR)。
 
 この技術的に高難度の音楽で、グールドは8つのテイクを録音した。
 そのなかで6番目と8番目のテイクは技術的には「部分差し替えをひつようとしない」完璧なものであったが、一本調子という欠陥があることが、録音から数週間後の視聴で判明した。
 それぞれ異なるスタイルで演奏していたこの2つのテイクを、グールドは、それが同一なテンポをたまたま持っているという指摘を受けて、スプライスするのだ。
 「いささか威圧的な」6番目のテイクはフーガ冒頭の主題提示および結びの提示に、「6番目と比べて活気のある」8番目のテイクはフーガの中央部のさまざまな転調を伴う場面へといったように、ふたつのテイクからなるひとつのフーガが誕生した。

 グールドはこのエピソードを、こうまとめている。


 このように多様に組み合わさった演奏の仕方を、なぜ事前に練った演奏構想の一部に取り込んでこのフーガの主題に用いることができなかったのか、もちろんわからない。それにしても、このように異なる複数のスタイルが必要なことなど、スタジオ録音中にはっきりすることはまずないだろうし、ましてコンサート会場の諸制約の下で演奏する演奏者にはそんなことはまず思い浮かびそうにない。しかし録音後の、いわば、あと知恵を活かせば、演奏が想像力に押しつけてくるさまざまの制約をひじょうにしばしば乗り越えることができる。(GGR)


 いみじくもグールドは、「レコーディングは、どんなことが音楽の演奏に適切なのかについてのわれわれの考え方を、よかれあしかれ永久に変えてしまうだろう」(GGR)と予言している。

 上のフーガのエピソードはまた、ザ・ビートルズの『ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー』の制作過程とよく似ている。
 ジョン・レノンの自伝的なこの作品もまた、異なるテイクの継ぎはぎ(このときはテンポを合わせるために回転数の調整も行われた、)によって生み出された。
 ビートルズの――そしてプロデューサーのジョージ・マーティンの――もたらしたサウンド・プロデュースは当時ほとんど革命的な出来事だったが、シリアスな音楽の業界では少なくとも公には、制作サイドから演奏に手を入れるということは好ましく思われなかった。
 グールドはザ・ビートルズのことは評価していなかったが、それでも両者のサウンドの考え方には似たところがあった。
 ザ・ビートルズがサウンド・クオリティの面からライブ・コンサートを放棄したことも。



[image/air_ : 細越一平]

<場>を探す。

2009年04月16日 20:00


渋谷にて。

先日の新宿も、最近通っている横浜もそうだが、現代日本を代表する都市に、音楽の入り込む隙間などないのかもしれない、改めてそう感じた。

雑踏と喧騒のただなか。


river



<場>には力がある。


その<場>を探しましょうか。



〔image/air_ : 細越一平〕

墨田ぶらり下町音楽祭

2009年04月15日 22:56

はるばるベルギーから、押上界隈できらりと光る、そんなコンサートのご案内が届きました。


♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪


墨田ぶらり下町音楽祭、というのが5月10日に開催されるそうです。
本格派の素晴らしい音楽家の演奏を身近で楽しめる良い機会です。凄い現代曲や古楽が聴けそう! 

5月10日(日)
墨田ぶらり下町音楽祭
 
十間橋通り商店街界隈(押上駅下車徒歩十分 )

ミニコンサートを聴きながら下町探索!

場所  押上文花町内会倉庫(現代音楽ブース)         
     天真庵(オペラブース)
     黒崎竹信堂(バロック音楽ブース)
     スパイスカフェ(ジャズソングブース)
      
チケット売り場、案内  十間橋ふれあい会館
(各会場は徒歩5分圏内です。)

時間 14:00?14:30     料金 通し券 2000円
    15:00?15:30      1会場のみ 1000円
    16:00?16:30     文花在住70歳以上&
    17:00?17:30     小学生無料 

チケットがないと入場できません。

出演:佐藤佳子、橋本晋哉、吉川真澄、愛甲雅美、安藤由香
鈴木奈津子、長久真実子、山本徹、渡辺佳代子
    パティオ・イカウイイ(国連親善大使)

♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ 

ブログを拝見すると、なんともほっこりする雰囲気のなかに、音楽の自然な佇まいがあって、なんとも魅力的な雰囲気です。。。


いざいざ。



[image/air_ : 細越一平]
(4/17 追記)

渋谷へ、朝比奈隆、信念。

2009年04月14日 19:34

今日はこれから渋谷へ。

佐藤智哉とimage/air_の打ち合わせ。

個人的には四月前半のまとめになる。


flower2



夢は逃げない。

逃げるのはいつも自分。



そういいつつも不安になることばかりだけれど、諦めなければ、必ず何処かに辿り着く。



日本が誇る大指揮者、故朝比奈隆さんは、まだ若かりし時、先生に、あなたは人よりも才がないのだから、人より多く舞台に立ち続けなさい、と言われたという。


朝比奈さんは、その教えの通り数え切れないほどの舞台に立ち、多くの人々のこころに、圧倒的な感動を与え続けた。


自分を偉大な指揮者になぞらえる訳ではないが、決して諦める事なくひとつのことにたちむかう、その愚直なまでの強い信念を持ちたい。



コンサートのススメ:Trio The Trip(渡瀬英彦・さのさとし・宮澤等)

2009年04月13日 21:47

コンサートのご案内です。

♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪
Trio The Trip

渡瀬英彦 フルート
さのさとし トロンボーン
宮澤等 チェロ

ゲスト
羽根田ユキコ ヴォーカル
石井由紀子 コール・アングレ
加藤ミノル ピアノ


日時
4月16日(木曜日)
19時スタート
ミュージックチャージ 3000円

場所
銀座せきていラウンジ
銀座せきていラウンジのライブスケジュールはコチラ

プログラム
ポルトガルのファド(詳しくはこちら)やビートルズの曲目から、バッハ、ラフォス、そして知る人ぞ知るさのさとしオリジナル作品まで。
幅広いプログラムから、彼ららしい音楽の機微を聴かせるライヴになるでしょう。

とくに、ゲストの羽根田ユキコさんのファドが素晴らしい!とのことです。


銀座の春の夜のひと時を、音楽で彩ってみませんか?


僕は遅れての参上になりそうです・・・

花について、「しぼめる花」、リャド、儲かる花屋さん。

2009年04月12日 02:36



春だからか、最近花に目がいく。


flower


実家の庭には、あふれんばかりの花が咲いていたのに、僕は全く興味がなかった。そのことを今になって後悔している。



花に惹かれるのは、その機能(生殖や繁殖のために動物や昆虫に見つかりやすいように)ゆえ当然かとも思うが、それよりも、ずっと咲き続ける花がないように、過ぎゆく時間に抗うようにただ咲く、その姿ゆえなのかも、と思う。


その感覚は、やはり音楽に似ているのだろう。

そういえばシューベルトは「しぼめる花」のヴァリエーションを遺している。



花、というと、ホアキン・トレンツ・リャドという夭折の天才がいて、その人の遺した花の絵画を初めて見て、衝撃を受けた覚えがある。

花の いろ や かたち を超えてというか、それらの形象を通して、それの持ついのちの躍動や瑞々しさ、儚さなどをあらわしているような絵画だった。




花が咲く、ということに意味などなくて、それはただ思うがままに咲き誇る。

なにがしかの意味があるとすれば、たくさんに咲く花のなかから、その一輪にめぐりあうこと、出会うことなのだろう。




花屋さんって、たくさんあるけれど、儲かっているのだろうか。
気になる。


売れる花屋さんと、儲かる花屋さんは違う。

どうやったらまっとうに儲かる花屋さんをつくれるだろう。


最近商売づいている。それもまた大切。




今日は完全オフ。にしたい。


リャドについては、また別の機会で。



[image/air_ : 細越一平]


多摩川に散歩、鴨川、新宿、余白を探す。

2009年04月11日 23:14


今日までに、これからの事業についてひとつアイディアをまとめると決めていたので、先週からかなり時間を割いてあたっていたのだが、どうにも今朝になって頭がフリーズしてしまったので、多摩川に散歩に行くことにした。


多摩川っていつも車窓から眺めるだけだったのだが、なかなかに素晴らしかった。

久しぶりに遠くの景色を眺めたし、何より川の流れがα波全開という感じでリラックスできた。


山形にいた時はほぼ毎日川を渡っていた。

しかし改めて川の存在に気づかされたのが、京都にいた際の鴨川(賀茂川)によってである。



時間により、季節により、天候により、鴨川はその表情を変える。

音も仕草も変える。


晴れた時には人は川辺で戯れ、雨の時にはその厳しさに慄き、

朝には全てを流し気を入れ替え、夜には男女のささやきを掻き消す。


京都では、川は人の営みに寄り添い、あるいは聖なるものとしてそれを受入れ、あるいは拒絶しながら、とうとうと流れている。




iphone1


多摩川ではほとんど桜は散っていたが、その花びらがすぐそばの公園(丘のようになっていた、どうやら古墳もあるらしい)に降りしきり、春の訪れを祝っているようだった。



帰ってきてなんとか資料をまとめ、夕食は新宿天麩羅を食べに行く。

iphoneでブラームスを聴いていたのだが、その雑踏のなかで止めた。


あまりにも人が多く、雑踏と化したこの街には、響くべき音楽などないのかもしれないと思わざるを得なかった。


それでも。


その中の何処かに、音楽の響くべき余白を見つけなければならない。

少しずつでも、その余白を拡げ、色を付けていくのが、僕の仕事だ。



[image/air_ : 細越一平]


ノラ・ジョーンズ"SUNRISE"、『風の歌を聴け』より、桑名、夏。

2009年04月10日 21:47

今月になって、mixiやらブログやらPC環境やらを整えて始めている。

ええいとばかりにレビューとかを捨てていくと、ひとつ目に留まるものがあったので、ここに残して置こうと思う。





ふとした拍子に、いつのまにか心の間隙に入り込んでいる、そんな音楽がノラ・ジョーンズの "feel like home"。

前作のブルーがかった響きよりかは、よりカントリー色が強まったように思えるこのアルバムは、それでいて「ノラ色」とでもいうべきトーンに包まれている。


サウンドは、どこかアナログチックで、キャロル・キングのあの輝かしいタペストリーを思わせるような懐かしさとぬくもりを伝えている。

そしてノラ・ジョーンズ自身のハスキーでスモーキーな、囁きかけるような声。親密な友人の部屋に招かれたような気分にさせてくれるこの音楽の中でも、"humble me"は珠玉の作品である。

この曲で我々は、ノラ・ジョーンズが優れたストーリーテラーであることを確信する。


その物語はまさに、現代に生きる我々の生きた物語である。都会の雑踏の中で懸命に生きるひとりひとりの物語。


村上春樹の「風の歌を聴け」に、こんな一節がある。


 山の方には実にたくさんの灯りが見えた。もちろんどの灯りが君の病室のものかはわからない。あるものは貧しい家の灯りだし、あるものは大きな屋敷の灯りだ。あるものはホテルのだし、学校のもあれば、会社のもある。実にいろんな人がそれぞれに生きてきたんだ、と僕は思った。そんな風に感じたのは初めてだった。そう思うとね、急に涙が出てきた。泣いたのは本当に久しぶりだった。

 

僕はこの文章が好きだ。

実にいろんな人がそれぞれに生きてきた――そして生きている――

"Sunrise"で、ノラ・ジョーンズはそんな感情を歌う。


then I said
Oooo oooo oooo
to you



何処に帰ればいいのだろう、これから何処に向かえばいいのだろう、そんな我々に、ノラ・ジョーンズは言葉なき言葉を歌う。

どんな言葉よりも雄弁で、深い優しさに満ちた言葉を。 






「都会の雑踏の中で」とあるが、その時僕は三重は桑名の居酒屋の定休日のカウンターでこのレビューを書いていた。

桑名に移ってきて3週間目くらいの、初めての休日、確かまだ住む場所が決まっておらず、知っている人も土地勘も車もないものだから、結局店で資料作りなどをしていた。


桑名の夏は熱く(オープンが8月8日だった)、縁側に座っていると蝉の鳴き声がみんみん響き(そのころ駅前でも人通りは本当にまばらだった)、時間がゆっくりと流れていた。


そして僕は、行き場を失っていた。


これから何処に行くかわからず、今此処が何処かもわからず、それでも比喩的な意味で、音楽から遥か遠くにきたことを、何となく感じていた。


そんなことを、ふと思いだした。



[image/air_ : 細越一平]

記憶を辿る、アルレッキーノ、コメディア・デラルテ、山口昌男。

2009年04月09日 00:10

7月に、ミラノ・ピッコロ座が来るらしい。


ミラノ・ピッコロ座
アルレッキーノ――二人の主人を一度にもつと』


詳細はこちら↓
http://setagaya-pt.jp/theater_info/2009/07/post_157.html



ミラノ・ピッコロ座としては10年ぶりの日本公演とのこと。

高校生の時に、山口昌男の『道化の民俗学』をはじめとする体系的な知の世界の大ファンだった僕は、かなり勢い勇んで観にいった。


でも、なぜか記憶にない。とても興奮したことしか覚えていない。

確か青山の円形劇場に足を運んだ気がしたのだが・・・調べてみたら新宿文化センターだった←違いすぎ

じゃあ青山で観たのは・・・?

ネットでその頃にあったものを探していくと、どうもク・ナウカの『王女メディア』(2000年)か『トリスタンとイゾルデ』(2001年)と錯覚しているのかな?

脱線するが、ク・ナウカは、話者と演者を分け、さながら人形浄瑠璃のような独特の世界観を持つ演劇のカンパニーで、特に『トリスタンとイゾルデ』は原田敬子さんが音楽をつけ、凄絶な舞台になっていた。


しかし、気になっていたので探してみると、やっぱり青山でもコメディア・デラルテ見てた。

テアトロ・デル・ヴィコロ公演
フラミニアの誘拐 あるいは恋はルナティコ


確か多種多様な言語でしゃべるわ踊るわ暴れるわの舞台だった気がする。

あ?すっきりした。



<トリックスター>の考え方は、今も僕にとって大切な視座を与えてくれる。

山口昌男を読み返そう。



[image/air_ : 細越一平]



<繋げる>、シンプルに、音楽、<仕事>。

2009年04月08日 02:41


音楽音楽家、

音楽と聴き手、


要は、これらを<繋げる>仕事がしたいのだ。


それも、できるだけシンプルに。

そして少し、「新しい」形で。


音楽を聴く喜び、伝える喜び、それらを感じる喜びを、シンプルな姿で取り戻したいのだ。

音楽が、生命をより豊かにし、彩りを加え、もっともっと輝かせられる、そんな存在であると信じているから。





今はそれを<仕事>として、<事業>として成り立たせる準備をしている。


そもそも<事>に<仕える>と書いて<仕事>である。

では<事>とは何か。


僕は、<事>とは、<自分以外のための何か>であると思っている。


そして、<仕事>は、それに関わる全ての人を幸せにするものでなくてはならない。

「黒字」とはそういうものだ。



そう考えると、これから僕らがやろうとしていることは、

音楽を通じて、ひとりでも多くの人の人生に喜びを提供する仕組みを創る」ことと言えるのかもしれない。


僕は、その為に生きてきて、それを叶える為に生きている。

そう信じること。

それが想像力の為せる業だ。



[image/air_ : 細越一平]





楽譜ビュワーと化したi phone。

2009年04月07日 02:16


IMSLPからダウンロードしたマタイのpdfファイルをgmailのアドレスに飛ばしてみたらなんと閲覧可能だった。


知識のある方には当たり前かもしれませんが・・・


safariでブックマークしたら、i phoneで楽譜が見放題になってしまう!!
(というか、なってしまった)


なんて素晴らしい時代なんだ・・・ありがとうi phone。

朱鷺(トキ)の写真。chikap(チカプ)、知里幸恵、吉松隆。

2009年04月06日 22:33

昨日の朱鷺トキ)、何と宮城県まで飛来していたらしい。

リンク先は、その朱鷺の写真。

朱鷺
-Yomiuri Onlineより


朱鷺というと真っ白なイメージが強いが、この季節は繁殖期のために、頸部から着色体を分泌し、体に塗りたくるため、このような色に染まるらしい。

とは言いつつ、放逐した朱鷺の雌は、佐渡に留まる雄を残し、全て本土に飛んでいたらしい。
こんなところでも何となく日本社会的な・・・

しかしその後、雌の一羽が再び佐渡に渡ったという。



ずっと使っている、chikapという名前は、アイヌ語で<鳥>という意味。
はじめて知ったのは、確か高校生の時に手に取った、岩波文庫の『アイヌ神謡集』。
19歳でこの世を去ったアイヌの詩人、知里幸恵が、アイヌ語をローマ字で表し、そこに日本語訳をつけている、とても素敵な詩集。

そしてその後、吉松隆がフルートアンサンブルのために、同名の作品を書き、カメラ―タから録音が出ていた。

後に編まれる弦楽合奏版は鳥に蛇の足が生えたキマイラだが、フルートのそれは、群れた鳥の息吹や羽ばたきを感じさせる名作である。



[image/air_ : 細越一平]



朱鷺(トキ)に関するニュースを2つ、吉松隆、「朱鷺に寄せる哀歌」。 

2009年04月05日 08:21

昨年9月、<野生>の空に放たれた朱鷺トキ)が、本州に渡り、遠く秋田まで飛んだ。

http://mainichi.jp/select/science/news/20090405ddm041040133000c.html



朱鷺の学名は『ニッポニア・ニッポン Nipponia Nippon』。

もちろん今日本の空を飛んでいるのは、中国産の朱鷺だ。

日本の朱鷺は、2003年に滅んでいる。

ただ、生物種的には全く同じ種なのだという。だから、厳密には「絶滅」ではないらしい。



先にリンクしたニュースによると、秋田に飛んだ雌の朱鷺は、たった1羽で、しかも1日に140キロを飛んだという。


その朱鷺は一体何を想い、何を見たのだろう。



吉松隆の代表作に、『朱鷺に寄せる哀歌』がある。

調性を失った(放棄した)「ゲンダイオンガク」の世界で、「鳴かず飛ばず」の吉松が(おそらく最後のつもりで)書いたそのスコアの美しさ、激しさ、静けさ。

そして、哀しさ。


その音楽は、まさに切実だ。


世に放たれるべき音楽がそこにあり、問いかけるべき音楽が、そこにある。



何故に飛ぶのかという問いは、何故に在るのか、という問いと一緒だ。

何の為に生きるのか、という問いもまた、意味がない。


生きた結果がなにがしかの意味を為すのであって、そんな打算的に生きれるものでもない。

最近はそう思っている。


ただ、もし自分が飛べるのであれば全力で飛ばなければならないし、生き切らねばならない。


たとえ一人であっても。かの朱鷺のように。


そんなことを、思った。



余談だが、関連して。

http://mainichi.jp/photo/archive/news/2009/03/05/20090306k0000m040071000c.html


 新潟県佐渡市で08年9月に放鳥されたトキのうち、3歳の雌が長野県木島平村へ飛来して5日で3日目を迎えた。有機農業を推進する同村の田んぼ周辺にはドジョウなどが豊富に生息し、格好の餌場になっているようだ。

 1日に長野県内で初めて確認され、その後は信濃町、長野市などを転々とし3日午後に同村で目撃された。以来、昼間は扇状地に広がる広大な田を歩きドジョウやミミズを食べ、夜間は木の上で過ごしているとみられる。田の脇には、トキを一目見ようと多くの見物客が集まっている。

 ◇「有機の里」PR
 新潟県境に近い同村はスキー場と農業が主要産業。01年から「有機の里」づくりを掲げ、村が牛ふんなどで堆肥(たいひ)を生産し農家が土壌改良や減農薬を進めている。この日午後には芳川修二村長と佐渡市の高野宏一郎市長が電話で協議し、同市がドジョウの差し入れを申し入れたという。芳川村長は「『有機の里』の一つの成果。トキを大切に見守りたい」と語る。

 鳥類の生態に詳しい山階鳥類研究所(千葉県我孫子市)の尾崎清明・標識研究室長は「トキが満足できる環境があるのだろう。餌が十分で、人間がストレスを与えなければ、しばらくとどまる可能性がある」と話している。【竹内良和】


「ドジョウの差し入れを申し入れた」というくだりが、良い。

何と言うか、ほっこりとするニュース。



[image/air_ : 細越一平]


プロジェクトJAPANを見ながら、「第3回アフリカンフェスティバルよこはま」に行ってきた。

2009年04月04日 21:42

i phoneのアドレス帳の移行に格闘しながら、NHKを見ている。

プロジェクトJAPANと銘打った、3年がかりのシリーズだという。
プロローグは「戦争と平和の150年」。


昼間は、知人が参加している「第3回アフリカンフェスティバルよこはま」に行ってきた。


それに感化されたということではないが、<知ること>の重みを、感じる。

逆にいえば、知らないということがいかに無力であることか。



フェアトレードについてもそう。

誰かが儲かり、誰かが貧困にあえぐ、その仕組みがよしという時代ではないのだ。

「対岸の火事」で済む世界ではないのだ。


そして世界は知りすぎている。

世界中の情報は均されている。

求められるのは、今必要な情報は何かを嗅ぎ分ける力であり、それを補助するツールでしかない。
価値がある情報を見つけるのではなく、必要な情報にどうやってアクセスし、それを活用できるかが重要なのだ。


最近、アフリカの野生動物の密猟を防ぐ手段として、携帯電話が有効というテレビを見た。

携帯電話によって情報が回ることによって貧困が減り、結果として密猟に頼る必要がなくなったのだという。




それでもテクノロジーを活用するのは(今のところ)人間だ。

想像力だ。


僕の手は、なにができるだろう。


言葉か? 行動か? 

それを模索する時間が続く。



[image/air_ : 細越一平]



ちなみに、今回アフリカ祭りを教えてくれた友人の職場はこちら

株式会社 バラカ

「ザンジバル・ミックス・スパイス」、なかなかに使えます。

アフリカ祭りは、赤レンガ倉庫にて明日まで。

たのしかったっす。

日本の著作権事情について考える、JASRACとその弊害。

2009年04月03日 03:07


最近、日本の著作権に関する問題について学んでいる。

わたしたちが、クラシック音楽の文脈でコンサートを行っていくことがいかに困難な事であるかという現実に直面している。

さらに言えば、この文脈で、意欲的に素晴らしい作品を紹介していこう、真に同時代を生きるわたしたちの音楽をしよう、という意欲ある音楽家であればある程、この日本という国では困難に直面する


音楽がもたらす<価値>があるのなら、それははたして誰のものか?


不思議なことに、このような困難な状況を作り出しているのが、
<音楽文化を大切にし、音楽の創り手と音楽を楽しむ方々を結ぶ架け橋となるよう>力を尽くしてきた、JASRAC、即ち社団法人日本音楽著作権協会である気がしてならない。



JASRACのHPを辿っていったり、直接電話して質問したりするたびに、僕は、まるで<滅びゆく恐竜の世界に迷い込んでしまっているかのような>錯覚すら覚える。


今月は、ささやかであるがこのテーマについて、問題提起をしていけたらと思っている。



[image/air_ : 細越一平]



i phone 3G

2009年04月03日 02:41


ついに買ってしまった>iphone


数年ぶりに我が手のなかにMacOS が・・・(涙


実は漢字トークのころに使い始めたマッキントッシュ。


今は「大人の事情」でウィンドウズマシン。



とにかく今夜は悪戦苦闘です。



とりあえずSkype入れました!

これで無線LANさえあれば世界中どこでも無料通話。




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Goldmund, "Ba", Windows Azure, 変わるもの変わらないもの。

2009年04月02日 00:12


昨日紹介したGoldmundが非常に(少し)好評だったので、もうひとつ。




Goldmund "Ba"

空の持つ不思議な拡がりを(you tubeに感化されたわけではないが)感じさせられるような楽曲。



マイクロソフトは、次代を担う基盤や環境として、<Windows Azure>というサービスを提供した。

いわゆる「クラウド」を呼び込むための<Azure = 紺碧の空>を用意したのだという。



変わらないものと変わり続けるものを見極める作業が続く。

大切なのは「伝えたいこと」で、しかし「伝えるための手段」は刻一刻と変化している。


何も持っていない今の状況が、実は幸いするのではないかとも思っている。


改めて、image/air_のはじまりに寄せて綴った文章からは、逆に今だからこそ実現可能ではないかと思えるかたちを、垣間見ることができる。


そしてそれを信じることで、窓は開く。




[image/air_ : 細越一平]




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