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シルク・ドゥ・ソレイユ<ZED>ふたたび、あなたのいのちのよろこびをうたえ。

2009年06月30日 21:04


昨日は舞浜に行き、またシルク・ドゥ・ソレイユの<ZED>を観てきた。
今回は最後列のオーバービュー席。それしか取れなかった。全体が俯瞰でき、前回とはまた違った感覚。

そしてまた、泣いた。
一緒に行ったその日が誕生日の彼女は、はじめから泣いていた(それもどうかと・・・)。
今日はさっきyutubeで観て、ひとりでまた号泣してみた(もはや病気・・・)。


ちなみにゴールデン・ウィークには<コルテオ>の千秋楽にも行ってきた。
ゲストできていた郷ひろみを生で観た。

コルテオ>がまさにサーカスの真骨頂を浮きだたせるのに対し(それはそれで素晴らしい)、<ZED>はショーとして全体を提示する。それは映画監督のフランソワ・ジラールの演出によるものかもしれない。


ZED>はあくまでも、ひとりひとりそれぞれの物語だ。
パフォーマーはそれぞれの演目において懸命にそれを演じ切る。恐らくは少しでも集中が途切れたり、微妙に力のかかる場所が違ったら、その瞬間に全てが終わってしまうのだろう。要は本気なのだ。観る者は祈るようにそれを見つめ、そして成功とともに心からの喝采を贈る。

芸術的と言っても過言では決してない<Hand to Hand>が結びつけるのは、それぞれの人生。ひとりひとりが懸命に生き切っているその<いのち>が織り込まれて、これ以上ないほどに美しい表現として<祝祭>の場面が綴られる。その姿に、心を強く、激しく、揺さぶられる。


<あなたのいのちのよろこびをうたえ>という言葉を思い出す。

てっぺんにいたときにたくさんの人に贈ったこの言葉が、逆に今は自分を叱咤し、鼓舞する。まだ何も終わっていないし、何も始まってはいない。<ZED>はそんな意味でも、今の自分にとってかけがえのない舞台だ。


[image/air_ : 細越一平]

 シルク・ドゥ・ソレイユ<ZED>



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simple gifts

2009年06月29日 01:22




'Tis the gift to be simple, 'tis the gift to be free,
'Tis the gift to come down where we ought to be,
And when we find ourselves in the place just right,
'Twill be in the valley of love and delight.
When true simplicity is gain'd,
To bow and to bend we shan't be asham'd,
To turn, turn will be our delight,
Till by turning, turning we come out right.

Elder Josephによる。ウィキペディアより引用

Simple Gifts



[image/air_ : 細越一平]

居酒屋に見る差別化戦略、ワタミ、てっぺん。

2009年06月28日 04:50


MusicScene,jpより、新日本フィルのプログラミングから考える。 からの続き。


<違い>を<わかる>ようにする、つまりは差別化という戦略を例えば飲食店、特に居酒屋という業種のケースで考えてみます。

世の中に星の数ほどある居酒屋さん。実際に現状は完全なオーバーストア状態にあり、バンバンつぶれています。そんな中で、在籍していたワタミ(和民)とてっぺんは、或る意味綺羅星のごとく輝いています(もしくは輝いていた時期がありました)。

もちろん他にも輝いている居酒屋はたくさんあります。しかし、このふたつの居酒屋がブランドとして存
在感を示したのは、<他とは違う>ということを<わかるようにした>ということにあります。


<違う>ということでいえば、和民は徹底的に商品価値とサービスに差別化要因を持ってきました。つまりは、

●商品(=料理)が美味しく、適切な温度でタイミングよく提供され、新鮮であり、ブレがないこと。

●サービスでは、従業員が親切で笑顔があり、清潔感があること。

これを具体的に(マニュアルとして、という表現でもよいがワタミにはマニュアルというものは存在しないので、より正確にはPDCAサイクルを回すためのチェック点として)

●商品→産地指定直送(農業への進出や産地・流通ルートの確保、自社ファームによる有機野菜にフォーカスする、45日周期での季節メニューの変更、作業手順書の順守、シズル感あるメニュー開発、自社セントラルキッチンの展開と流通の掌握、スケールメリットを出した商品の低価格化など)

●サービス→ズバリ膝つき接客と90度1秒のお辞儀、そしてお絞りの両手だし。QSC(クオリティ・サービス・クレンリネス)レベルの徹底と社内監査制度(かなりえげつない!)。

そして、何よりもの差別化戦略が、その価格帯です。当時隆盛していたファミリーレストランと居酒屋(天狗とか)の間隙をぬった<2250円>という価格設定。
ファミリーレストランよりもアルコール比率を上げると同時に、居酒屋よりも敷居を低くし、家族や高年齢層でも食事動機で来店しやすい・・・そして何よりも、その価格帯に位置する業態がなかったということです。和民はそこのフィールドを「居食屋」と銘打ち、縦横無尽に駆け巡りました。

さらに、上述した商品とサービスの差異化戦略は、当時どの居酒屋もしていなかったもの。お客様と同業者は、そこにささやかな、それでいて圧倒的な違いを感じたわけです。

ただ値段が安いからというだけでなく、<ささやかな、それでいて圧倒的な違い>によって、人は誰かに教えやすくなります。「今度あの店行ってみようよ」のあとに「あの店って、○○なんだよ」と言えれば、人にも伝えやすくなるものです。それが口コミです。

渡邊美樹さんは、はじめ超不採算店だった「つぼ八」を、超繁盛店にドンドン変えていきます。立地も変わらず、内装も宣伝も変わらず、はじめはメニューも変わらないのに、渡邊美樹さんはそれを可能にした。要は、それまでの客層つまりサラリーマン男性の中年層から、老若男女デート利用や家族連れにまでその需要を拡張したということです。それによって、ナショナル・チェーンと呼ばれる居酒屋チェーンの全国地図が塗り替えられたほどです。


では、てっぺんはどうでしょう。
てっぺんは、徹底して<>という要素にこだわっています。

「居酒屋を、不平や愚痴や文句で溢れる場所から、夢やありがとうを本気で熱く語り合える場所にしたい」という創業者の大嶋啓介さんの想いはやがて、
「お客様を元気にするにはまずそこで働いている人間が元気でなければならない」という想いとなり、店長はじめ従業員の人間としての力を高めよう、という想いとなり、
これが高じて「日本中を明るく元気にしたい」という想いに結実した、という奇跡的な場所でもあります。

だから、てっぺんの差別化要因は<元気>や<明るさ>や<笑顔>です。そして<不器用だけど一生懸命>(個人的にはこれが一番だと思う)です。
「本気の朝礼」であったり「店長プレゼン」であったり「大声」が、それらを補足するキーワードとなります。

商品も名物と言われるものはありますが、特にそれは差別化対象にはならないと思います(今はそうでもないかもしれませんが・・・)。確かにてっぺんは串揚げ、串焼き、鉄板焼きなどの特徴をもっていますが、それはてっぺんの数店舗の中での差別化であって、「串揚げ」や「串焼き」、「鉄板焼き」などのそれぞれのカテゴリーのなかでは<違う>ということをアピールするには至っていないのが現実です。

逆に商品以外で、例えば誕生日のサプライズイベントも、ウリのひとつとなり、先ほどの口コミ集客に貢献しています。徹底して「ハレ」を演出するのが、てっぺんのモチベーションであり超がつくほどの人気店になった秘訣ではないでしょうか。

→ ・クラシック音楽で差別化は可能か? 
  ・伝える方法についての考察 (仮)に続く


[image/air_ : 細越一平]

関連した記事
 MusicScene,jpより、新日本フィルのプログラミングから考える。 

MusicScene,jpより、新日本フィルのプログラミングから考える。

2009年06月28日 04:43

MusicScene.jpにて、新日本フィルの9月からの新シーズンに向けての記者会見の要旨と、平井洋さんの評が載っています。
MusicScene.jp新日フィル記者会見: 平井洋の音楽旅にリンクがあります。)

「日本では通常、集客に全くプラスでない曲目を平然と定期演奏会で並べる」(2008年10月1日「アルミンクの奮戦」より)クリスティアン・アルミンクは、今期も指揮台の上からプログラミングまでタクトを存分に振っている印象。
他のオーケストラと比べて定期演奏会のプログラミングが明らかに<違う>ことは、クラシック通ならずとも<わかる>のではないでしょうか。

この<違う>と<わかる>が、実は大事なのだと思います。
そして、それを<伝える>ということ。クラシック通ならずとも、と書きましたが、アルミンクがこのようにアグレッシヴな<違い>を用いているのは、つまりは<変化>を求めているということです。

じゃあそれはなんの<変化>か? 
狙いとしては聴く人の層でしょう。それは<世代>というセグメントかもしれませんし、<カテゴリー>というセグメントかもしれませんし、首都圏で行われるコンサートの<変化>かもしれません。しかし確実に、このプログラミングは<変化>を求めているし、それが結果として収益もしくは文化貢献という側面からペイされるものでなくてはなりません。

けれども、どれほどの変化も、<わかる>ものでなくては、さらに効果的に<伝わらなければ>意味がない訳です。

居酒屋に見る差別化戦略、ワタミ、てっぺん。 に続く。

[image/air_ : 細越一平]

パトリス・ルコント『ドゴラ DOGORA』、カンボジア、まなざし。

2009年06月27日 21:04

午後から時間があったので、TSUTAYAにいってきた。
獲物は、ちょっと興味があった『パトリス・ルコントのドゴラ DOGORA』と、
宿願のヴィスコンティ『ルートヴィヒ』。

『ドゴラ』は、役者も台詞も台本もない音楽映画を創るのが夢だった、というルコントが、エティエンヌ・ペルション Etienne Perruchon の音楽にインスパイアされ、カンボジアの映像をコラージュして綴る作品。

カンボジアの日常も、ルコントの眼差しにかかるとそれは祝祭になる。ジーンズのミシン工場も、プノンペンの広場も、ゴミ集積場でそれをあさる人々も、伝統舞踊の稽古も、バイクに乗りあう様々な人々も、数十人が荷台に乗ったトラックが進む道も、スカートだけをまとって自転車を漕ぐ少女の後ろ姿も、おそらくは何の変哲もない日常。しかしルコントは徹底して客観的な視線を崩さず、それによってそれぞれに寄り添う滑稽さやエロス、切なさやエスプリそのものが滲み出てくる。「生」に対するエネルギーを、カンボジアから感じたのかもしれない。
「感情を直接刺激する」ことを望んだというルコントの言葉に納得。

もはや使い古されているが、改めて<まなざし>というテーマが頭をよぎる。
それは言葉よりも雄弁で、溢れるほどに詩的で、胸をかきむしるような想像力に満ちている。
ビニールを体に巻いて何かの作業を見つめている少女のまなざし、帽子を深くかぶり、恥じらうようにしながらもこちら(カメラ)を気にする少女のまなざし、行き過ぎるバイクの後ろに乗る人々のまなざし、トラックの上で何処かへ向かおうとしている少女のまなざし。それはなにかを訴えているわけではない。そこに何かを感じるのは、まさにそのまなざしに向き合っている自分の心だ。

最後、フラッシュバックされる少年のまなざしからは、決して目を背けられない。


さあこれからヴィスコンティ!
4時間・・・グッときます。

[image/air_ : 細越一平]


「せんくら」をご存知? 

2009年06月27日 01:42


メルマガでは毎日これでもかというくらいの情報が送られてくる。
いつもはたいていタイトルだけを見て過ごすのだか、「@ぴあ/クラシック」からこのようなタイトルが届いた。

 【@ぴあ】 サイトウ・キネン、仙台...

「仙台」?


不勉強故はじめて知りました。

第4回 仙台クラシックフェスティバル2009
 ?杜の都から楽の都へ。クラシックに染まる三日間

公式ウェブサイトはこちら。
 http://www.sencla.com/


なんだか、一見<何か>といろいろ似ている気もしたが、主催が仙台クラシックフェスティバル実行委員会、仙台市、(財)仙台市市民文化事業団、(財)仙台フィルハーモニー管楽団、仙台市交通局、仙台市教育委員会、(株)仙台放送、(株)河北新報社といった仙台の官と企業であったり、実行委員会の肩書などを拝見すると、似ていつつもにてないのかな?という気もする。ただ、音楽家はジャパンアーツさんに所属されている方が多い。確実にその辺はいろいろな力関係があるのだろう。しかし結果として音楽事務所の名前を表に出さないことで、この音楽祭は少なからず仙台のものとなる土台があると思う。ただ、去年までは平井洋さんがプロデューサーとして携わってらっしゃったようだ。今年はどうなのだろう。

なにやら気になる音楽祭。

つづく。

[image/air_ : 細越一平]


アレキサンダー・マッジャーを聴く@紀尾井ホール。

2009年06月26日 01:26


誘われて、アレキサンダー・マッジャーのリサイタルを聴きに行く。ありがとうございます。
Oya Piano Duo Official Blogでも取り上げられていて、実は内心かなり興味ありでした。


ドビュッシー:12のエチュード
リゲティ:ピアノのためのエチュードから
第1集より第5曲 虹
第2集より第11曲 不安定なままに
ショパン:12のエチュード Op.25



不自然な緊張から解放され自由になればなるほど、音はより純粋に、響き、駆ける。
それが自然であり、あるがままであり、いのちの本来の姿なのだとおもった。

ショパンの細やかな走句は、決して神経質になることなく、まるでよく冷えたシャンパンの繊細な泡のように、光を映しそして消えていった。そんなショパンは初めてだった。


とりあえずは音の印象まで。

ショパン嫌いが克服されそう。年とともに味覚も変わるしね・・・。


[image/air_ : 細越一平]







コンサートのススメ:Trio The Trip(渡瀬英彦・佐野聡・宮澤等)@Blues Alley Japan

2009年06月25日 01:05

4月、好評を博した銀座せきていラウンジに引き続き、Trio The Tripが目黒のBlues Alley Japan に出演します。


♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪
羽根田ユキコ&TRIO THE TRIP

(Vo)羽根田ユキコ

【TRIO THE TRIP】
 (Tb/Harp)佐野聡
 (Fl)渡瀬英彦
 (Vc)宮澤等

 (Pf)加藤実
 (Ob)石井ユキ

♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪
 2009年7月1日
 @Blues Alley Japan
  open 18:00 1st stage 19:30
         2nd stage 21:15

 詳細はこちら → 羽根田ユキコ&TRIO THE TRIP 7月のライブスケジュールより

各方面で絶賛される羽田ユキコさんのファド(詳しくはこちら)と、Trio The Tripのウィットに富んだアンサンブルの妙を、マイルス・デイビスがオープニングアクトを務めたという歴史あるライブ・ハウスで… もちろん定番の『ブーゲンビリア』『楽園』(さのさとし)から、果ては松山千春の『恋』(スペシャル・ゲストあり…!)まで、彼らにしかできない音楽が聴けるでしょう。

目黒の夜、っていうのも、何となくあってる気がします…!


[image/air_ : 細越一平]

  コンサートのススメ:Trio The Trip(渡瀬英彦・さのさとし・宮澤等)@銀座せきていラウンジ

ブライアン・イーノ Brian Eno 『空港のための音楽 MUSIC FOR AIRPORTS』 付記。

2009年06月24日 23:57


参考までに。



Brian Eno - MUSIC FOR AIRPORTS(2/2)



ブライアン・イーノ、『空港のための音楽』について語る。
とても興味深い。知性や精神の広がりを感じた。


[image/air_ : 細越一平]

 ブライアン・イーノ Brian Eno 『空港のための音楽 MUSIC FOR AIRPORTS』。

ブライアン・イーノ Brian Eno 『空港のための音楽 MUSIC FOR AIRPORTS』。

2009年06月24日 23:45

グールドの言うところの(バック・グラウンド・ミュージック)――括弧付きなのは、これが一般的ではなく狭義であるため――やサティ、ケージも登場してきたというところで、今日はこの有名な音楽を。


ブライアン・イーノ Brian Eno
空港のための音楽 MUSIC FOR AIRPORTS(1/1)

この作品が多くの意味でモニュメンタルなのは、イーノが初めて<Ambient Music アンビエント・ミュージック(環境音楽)>と関した作品(実際にそれはニューヨークのラガーディア空港 LaGuardia Airportで1980年に使用されているが、空港のウェブサイトにはその記載はない)であることに尽きる。

イーノがもたらした音楽は、「空港のために」(綿密に計算されて)作曲されたものでありながら、今やその空間性やもともとの文脈、そして<アンビエント・ミュージック>という概念すらも越境して拡張されている。サティは『家具の音楽』を提唱したが、イーノはそれをより実用性の高いかたちで結実させた(もちろんこれ以降、その作風はどんどん難解になっていくが)。


『空港のための音楽』のレコードが発売されてから30年。
ぼくは、あなたは、この音楽から今何を聴きますか?

今もこの音楽は、優れて<実用的に>、そして現実的にこの世界に、響きうる。


[image/air_ : 細越一平]

 何篇かの言葉、武満徹、ケージ、サティ。
 Bloomをiphoneに入れてみた、ブライアン・イーノ、RjDj、サックス練習。

ランディーニ Landini "Ecco la Primavera"、マンロウとロンドン古楽コンソート、クロムホルン、古楽器と時代の想像力。

2009年06月24日 08:00

youtubeより。



フランチェスコ・ランディーニ Francesco Landini(1325-1397)
『春は来たりぬ』 ECCO LA PRIMAVERA

えぇ、今日が果てしなく蒸し暑い梅雨の中日だったことは知ってますが・・・

聴き慣れたロンドン古楽コンソートの演奏にジョイントされ、同じ曲のアンサンブル・アラ・フランチェスカによる演奏が続く。リズミックで彩りのある音楽と、宗教的かつエロティシズムの香りも漂う声の魔力。
マッチングされたデヴィット・アッテンボローの映像も美しく、詩的です。


ロンドン古楽コンソートを率いるデイヴィット・マンロウ。
彼を古楽の世界に引き込んだのが、クロムホルン。彼はその他にもリコーダー、ショームなどを独学でものにし、また古楽器のみならず膨大な数の民族楽器を採集していたという。ロンドン古楽コンソートの音楽が、アカデミックな世界から古楽演奏を一気に生気あふれる、現代の聴き手にとって魅力的な「音楽」として受け入れられたのも、そういった彼の広範な視野によるのかもしれない。
マンロウが34歳で自らの命を絶ってしまうまで、調べてみるとその音楽活動は9年ほどだった。彼の遺したアーカイブや、そののちの古楽音楽に与えた影響と功績(クリストファー・ホグウッドもコンソートの一員だった)を考えると、あまりにも偉大な9年間であったといえよう。


ちなみにクロムホルンとはこんな楽器です。
 →Crumhorn Home Page


古楽器を演奏するにあたり、結局はどのように響いていたのかを知る由はなく、やはりそれは奏者と時代の想像力に依る、というようなことを武久源造さんが本で書いていたが、クロムホルンやサックバットとかシャルマイとかの音のインパクトは、逆に聴き手の想像力を超えて来ることがあるようにも思う。
逆に、倍音の失われた現代の音環境の、いかに貧しいことか。


[image/air_ : 細越一平]


創造の過程に グレン・グールドの音楽22

2009年06月23日 22:32


 環境との関わり方という時、グールドが意識していたのはバック・グラウンド・ミュージックの可能性についてである。

 シェーンベルクが、作曲家と聴衆の間に直接的な関係を樹立し、現代音楽に対するはっきりしない点をなくすために立ち上げた<私的演奏協会>は、目的達成のために3つの条件を持っていた。
 それは、<良く研究した明確な演奏>、<何度も繰り返し上演すること>、そして<一般大衆の腐敗作用から遠ざけねばならない>ということである(ライヒ)。

 1918年の状況から、1960年代以降の録音技術を考えると、グールドの録音メディアの利用は、この3つの条件によく当てはまる。
 スタジオ・ワークを駆使した精密な分析と反省によって生み出される演奏、録音メディアの反復聴取性、そしてパッケージングされた録音媒体は変更不可能だ。
 グールドは20世紀の音楽――十二音配列に基づく、一般に聴きづらいと思われている音楽、「コンサート用音楽として出てくれば間違いなくいや」がられるような音楽(GGR)――も、映画のバック・グラウンド・ミュージックや生活の背景としてなら聴かれるはずと考えていた。


 グールドの提唱した<キット>の概念も新たな音楽受容の在り方を示している。それは、あらかじめ何通りかの解釈を施した部分を用意しておいて、それを聴き手に選択させ、その組み合わせで聴き手が望む演奏解釈を組み立てていくという考え方である。


 理論上こうした処理は音楽演奏の再構成に無制限に適応できるだろう。熱心な音楽通が自分のテープの編集者となり、自分自身の理想の演奏を創造する源であるそれぞれの解釈上の好みを、このような技術によって活かすのだ。それを妨げるものなど、実際何もありはしない。**


 作曲家の手を離れた作品に作り手の意思など存在しないとの主張とともに、自らの構造を当て嵌めていったこのピアニストはまた、演奏した者など誰でもよいという素振りをしている。
 実際彼は、誰が演奏したか、その日付けと場所といったドキュメンタリー的なものも余分な事柄に感じていた。

 彼の録音から聞くことができるピアノの、風変わりだけれども透明な音には、作品が音楽として何者にもよらず、凛として屹立している印象がある。
 グールドは演奏者たる彼の諮問すら拭き取ってしまうことを望んでいた。最後に残るべき、聴かれるべきものは音楽だけであると。

 そうであればピアノに寄り添うようにして吹き込まれている、消すことのできなかった彼の声にならない歌は、誰のものでもない彼岸の歌だ。



**GGRより。現在において、このような概念はマルチメディアの一般化とともに現実のものとなりつつある。トラックを聴き手がプログラミングすることで解釈を選ぶことのできるCDや、カデンツァを選択させるCDのパッケージは既に現実のものとなり、インターネットから果ては携帯電話の端末に至るまで、音楽要素を聴き手の好みに合わせてリミックス出来るシステムが存在する。その根底には、スティーヴ・ライヒらによるミニマル・ミュージックの理論の探求、テクノ・ミュージックの隆盛、ヒップホップなど引用(サンプラー)で構成される音楽、またMIDI規格などシステムの均質化といった要素が挙げられよう。



[image/air_ : 細越一平]

 演奏の哲学 第2章 終りまで
 創造の過程に グレン・グールドの音楽21

創造の過程に グレン・グールドの音楽21

2009年06月23日 01:19


中断を挟みましたので、前出した演奏の哲学 第2章 終りまでのリンク先を参照して頂ければ幸いです。



3 <匿名性の音楽>


 レコーディング・テクノロジーによって、表現を拡張した例で忘れてはならないのが、ヤン・シベリウスの『3つのソナチネ 作品67』と『キュッリッキ 作品41』の録音に用いられた、グールドの言うところの<音響の演出>である。
 彼はスクリャービンの作品で実験した(パッケージングはされなかった)8トラックのサラウンド技術*を、この「控え目な音楽家」(GGPW)に適応させている。

 グールドは80年にジム・エイキンのインタビューに答えて、この<演出>について、「あれは選曲を誤ったと思います。後から考えると、シベリウスにはあの類の音色操作は不必要でした」(エイキン)と吐露しているが、一方シュネーデルは、「この時の録音にあって、音楽は遠ざかろうとする何かであり、人がつかまえたと思っても、どこかへ行ってしまうようななにかである」(シュネーデル)と語っている。

 もちろん現在では音場をシンセサイズするエフェクターのような機材を用いれば、同等以上の効果を期待できるだろうが、8チャンネル・マイクの文字通り<異様な>効果(エフェクト)は――一応グールドはそこに、彼の演奏同様分析に基づいた構造的根拠を与えているが――この一連の北欧フィンランドの作曲家シベリウスの作品が、何処にも立脚していないような、時間・空間すらも無効化、いやそれすらも剥奪された、いわば<署名なし>の状況を聴かせるのだ。


 そのような、<匿名性の音楽>こそが、グールドが求めたものであったのである。
 ピアノからそれ特有の音響を削り取り、楽譜に対してその構造のみを見て取ることで、演奏習慣や伝統の影を剥ぎ取り、対位法という抽象的な構造を拠り所として分析をすることで作品の時代性を薄める――作品の<再創造>を、レコーディングによって具体化する。

 「レコーディングなる媒体は、グールドの美学の本質である、時間にとらわれない音楽、という見方を促進したのである」(GGPW)。

 シュネーデルは問う、「芸術はつねに<奪うという道筋を通って(ペル・ウイア・デ・レウアーレ)>追及されるのだろうか」(シュネーデル)と。
 彼は聴き手の意識を音楽そのものに向かわせるため、演奏者である彼自身の存在すら消え去ればよいと考えていた。
 そういった全ての刻印が消し去られたのち、音楽はやっと自由になれるのだと。

 
 想像的状況においてアイデンティティを示す要素が必然的に無視されるということでもっとも期待できることは、芸術を判定する場合、環境との関わり方が問題となり、もはや伝記的資料や時代設定がそれほど重要な判定でなくなるような風土が認知されることである。(グールド、GGR)



[image/air_ : 細越一平]

関連した記事

2章3節はこちら
 Glenn Gould on recording グレン・グールドの音楽16
 Glenn Gould on recording グレン・グールドの音楽17
 Glenn Gould on recording グレン・グールドの音楽18
 Glenn Gould on recording グレン・グールドの音楽19
 Glenn Gould on recording グレン・グールドの音楽20

2章冒頭はこちら
 演奏の哲学 第2章 グレン・グールドの音楽

 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽1
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽2
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽4
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽3
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽5
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽6
 
 創造の過程に グレン・グールドの音楽7
 創造の過程に グレン・グールドの音楽8
 創造の過程に グレン・グールドの音楽9
 創造の過程に グレン・グールドの音楽10
 創造の過程に グレン・グールドの音楽11
 創造の過程に グレン・グールドの音楽12
 創造の過程に グレン・グールドの音楽13
 創造の過程に グレン・グールドの音楽14
 創造の過程に グレン・グールドの音楽15

演奏の哲学 第2章 終りまで

2009年06月23日 01:10


ながらく更新していなかったグレン・グールドについての論文を、再開しようと思います。
それに先立って、これから(前にも書きましたように)アーカイブの整理を行おうと思いますが(つまりまだ手を付けていないということです)、とりあえずは第2章の分だけ、リンクを置きます。
もしご興味おありの方がいらっしゃいましたら、ご覧ください。

先の章やそれぞれのリンクに関しては後日整備していきたいと思ってます・・・


 演奏の哲学 第2章 グレン・グールドの音楽

 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽1
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽2
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽4
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽3
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽5
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[image/air_ : 細越一平]


生きるということ、<格>、世界はささやかに変わり続ける。

2009年06月20日 04:18

<正しく>生きている人。
<正しいと信じることのために>生きている人。

<夢や志>を抱いて駆け抜けようとしている人。
<あるがまま>を受け入れ、大きな流れに逆らわず自然でいる人。


人には<格>があると言うが、<格>の語源を辿れば、神様がやってきて止まる様のことを言うそうだ。

生きることに、正解なんてない。持って生まれた役目も、さだめもない。
大切なことは、自分の道を見つけ、それを自分のペースで歩くこと、そして、全ての人のペースを認めてあげることかもしれない。

人を認められなければ、自分を認めることなどできない。
誰かに与えることがなければ、みんなで分け与えることもない。
<分かち合う>ことは大事だが、その配分は一定ではない。それは覚えていなければならない。


そして。

あなたが望むように、世界は変えることができる。
あなたが強くそれを望み、望み続け、諦めさえしなければ。


iphone431


ただ心に留めておかなければならないことは、世界は変わる、けれどもそれは、本当に些細な変化の繰り返しと拡がりと繋がりに依る。

そのささやかな変化の始まりを、人は<きざし>と呼ぶ。


[image/air_ : 細越一平]






灯り。

2009年06月20日 02:24

村上春樹氏の新刊 「1Q84」が、あっという間にミリオンセラーになったらしい。
僕はといえば、まだ手にとっていない。

本音を言うと、実はめっちゃ読みたいのだが、読んでいない。
村上さんって、そんな読まれ方をされるような作家だったか? などと斜に構えつつ、うずうずしている。要はあまのじゃくなのだ。
といいつつ、なんだか一連のプロモーションを見ていると、周到にマーケティングとして組み込まれていたように思える(エルサレム賞を受賞したのはタイミングだが、そのタイミングすらもいわば後発的にPRとして機能した)。
誤解を避けるために言うが、僕はそういった商業主義的な側面を否定するものでは全くない。売れるものは売れるべくして売れるのだ。ただ、その<売れるもの=売れる価値のあるもの>の在り方であったり、<売れるべく>しているものの存在であったり、時として作為的に<売れている>ことであったりする状況は、見定めなければならないだろう。
少なくとも今年の上半期商品の東西横綱はきまったわけだ。つまり「1Q84」と「マスク」である。両者の売れよう、ちょっとばかり似通ってはいないだろうか(ちなみに大関は、「iphone 3G」と「ETCカード」かな?)。


村上春樹氏の処女作『風の歌を聴け』にこのような一節がある。以前も引用したが、再度引いてみる。

 山の方には実にたくさんの灯りが見えた。もちろんどの灯りが君の病室のものかはわからない。あるものは貧しい家の灯りだし、あるものは大きな屋敷の灯りだ。あるものはホテルのだし、学校のもあれば、会社のもある。実にいろんな人がそれぞれに生きてきたんだ、と僕は思った。そんな風に感じたのは初めてだった。そう思うとね、急に涙が出てきた。泣いたのは本当に久しぶりだった。



今日、彼女の実家で飼っていた犬が、息を引き取った。ゴールデン・レトリバーで15年生きたのだから大往生だろう。その最期を看取るために実家に帰った彼女から、メールが届いた。彼女が帰ってくるのを待っていたかのように、帰ってすぐに、その腕のなかで一生を終えたのだという。
「生きるって事は凄くエネルギーがいる。ただ生きてるだけでも。」

彼が、迷わず天国まで行けますように。


[image/air_ : 細越一平]


『おいしいコーヒーの真実』、<知らないこともまた同罪である>。

2009年06月17日 01:37

Q
トールサイズのコーヒー、330円。
あなたが支払ったお金は何処へ行くのでしょう?

そんな問いかけに惹かれて見てみた映画。

『おいしいコーヒーの真実』
公式ウェブサイトは→ 『おいしいコーヒーの真実』公式サイト

以前、知人が出店していたアフリカン・フェスティバルに行ってきたときにも、またバオバブのドキュメンタリーを観たときにも思ったことだが、
 ・<知ること>の重み
 ・<知らないこと>の無力
について、とりわけ全ての情報が瞬時に手の届くところにあるように見えてしまう世界故の・・・何と言っていいのだろう、欺瞞?矛盾?嘘? うまく言葉にできない・・・恐怖感と言うか、そのシステムの中に組み込まれている自分自身とその知識への憤りのようなものを感じる。

あまり関係のないことだが、ユビキタスユビキタスといい、世界の情報があなたの手の中に、などと言っている世界と同時進行で、手の中にその日の食料も持てずに死んでいく子供もいるという事実。
例えばネット文化のなかでは、<知られていないことは存在していないことと同じ>という文脈があるようだが、<知らないこともまた同罪である>という文脈もまた、現実の世界にはしかるべく存在する。

映画の中では、幾分象徴的な意味合いでスターバックス・コーヒーが取り上げられている。なんと言ってもスターバックスは、世界でも最も成功を収めたチェーンストアのリーディング・カンパニーだ。今ではマクドナルドと並んで、アメリカ的グローバリズムの表象的存在である。最もピークでは、1日に4店舗のスターバックスが、世界中でオープンしていたこともあるくらいだ。

もちろん僕もスターバックスに行くこともある。日本はスターバックスのお膝元と言ってもいいほどの状況である。世界でオープンで最も売れたスターバックスは、長野県の1号店だ(恐ろしいことに出店誘致の署名活動まであった)。アジアで最初に出店したのが銀座の松屋通り店で、世界で最も日販の高いスターバックスは、渋谷のQ-FRONT店。サザビーリーグとインターナショナルの合弁事業であるスターバックス コーヒー ジャパン株式会社は、確か今でも年50店舗以上の出店を義務付けられていて(なんと筑波大学の図書館にまで・・・学生はスタバのコーヒー飲むくらいなら白波でも飲め)、現在およそ850店舗。うろ覚えですが。昔取ったなんとやら、です。

映画では、スターバックスの1号店で誇りを持って働く店長の姿とその裏で深刻な飢餓に苦しむコーヒー産地の現状(=惨状)がモンタージュされる。初めの問いに答えれば、330円のうち、生産者に行くお金はそのうちの1?3%、3?9円に過ぎない。ではそれ以外の99%のお金はどこへ消えたのか?『おいしいコーヒーの真実』はそこを追求する映画だ。いや、追及するというよりは<提示する>と言ったほうが良いかもしれない。結局はその情報を処理するのは見る側の問題であるのだから。

ただ、ニューヨークの先物取引市場の喧騒にせよ、iphoneに株価グラフがデフォルトで入っていることにせよ、古館がしたり顔でニュースの最後にニューヨーク市場の為替の状況を述べるにせよ、そこに違和感を持てなくなったらおしまいだと思っている。すでにそのようなマネー至上主義、単一市場至上主義、あらゆる分野のメジャーによる独占至上主義の世界は、もうすでに終わりを告げているはずだ。
世界はある意味均されているし、その分だけよりいびつで、より点と点のドット絵のようになった。世界はピラミッドの頂点が動かすのではなくその裾野に位置する人々が、より自由にその進路を広げていく世界になった。

音楽も、芸術も、それに同じ。そう信じたい。


追記

ちなみに今日、以前も紹介した株式会社バラカザンジバル・MIXスパイスを使って、本格的なスープカレーを作ってみた。かなり美味。
このスパイスはタンザニアの農家とのフェアトレードを適応させている。とはいっても、フェアトレードは商売としてはまだ大変な困難がある。もともと原価の安いことが途上国を生産基地とする魅力でもあるからである。
しかし、上でも述べたように、ピラミッドの頂点が王権のように搾取するのではなく、あらゆる人間がwin-winの関係を築かなければならない。少なくとも世界はそうしないときしみ続ける一方だ。win-winが痛み分けでなくなる世界が、理想だが、現実はそうもいかない。


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関連した記事
 プロジェクトJAPANを見ながら、「第3回アフリカンフェスティバルよこはま」に行ってきた。




マイルス・デイビス、ビッチェズ・ブリュー、シャーマニズム、音の強度。

2009年06月16日 00:37

菊地成孔氏に触れると、どうしてもそこに透けて見えるジャズの先人の、<オリジナル>に触れたくなる。

<音>そのものの持つ<強度>という点において、20世紀を象徴する音、それがマイルス・デイビスのある種呪術的なトランペットから放たれたと言っても、過言ではないだろう。
ハード・バップ、<クールの誕生>、モード・イディオムの導入、エレクトロニック・サウンドへの傾倒、ラップとの共演、、、あらゆる音楽と時代を飲み込んだジャズの帝王。その膨大な録音の中でも、1969年に録音された『ビッチェズ・ブリュー』のなかで、エフェクトを通して炸裂する彼のトランペットは、まさに20世紀的な、モニュメンタルなパルスである。



Miles Davis Bitches Brew (冒頭)

錚々たるメンバーのダブルバンドの奥底から響くマイルスのトランペットは、まるで空気を切り裂き、音楽に圧倒的な路(みち)を示し、そして時代を突き刺す。同時にどす黒く地面を這うベニー・モウピンのバスクラリネットもまた、土俗的な音楽を導くシャーマンだ。


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 菊地成孔DUB SEXTET "Monkey Mush Down"、<クール>の残照。
 創造の過程に グレン・グールドの音楽19



菊地成孔DUB SEXTET "Monkey Mush Down"、<クール>の残照。

2009年06月15日 23:59

朝、眠気の残る頭をたたき起すために、電車を降りてから職場まで歩く7分間は、結構な音楽をかけることが多い。

最近の目覚まし代わりがこれ。



菊地成孔DUB SEXTET - Monkey Mush Down

youtubeにあるのはかなりストレートなライブ版。後半、菊地成孔氏のソロの歌舞伎っぷりはなかなかにオツ。
でも、正直録音の方がかっこいい。itunesにも出ているので、この1曲だけでもipodに入れて置いて損はないと思う。




ライブで<らしさ>が出ているのはこっちか。



Naruyoshi Kikuchi Dub Sextet - Live 2008.3.19

なんにしても、独特のセクシーさが魅力。菊地氏は、その言説や著作(格闘技に関する本はかなりお気に入り)でのエキセントリックさと比べて、サックスはストイックと言うか、抑制されたと言うか、もしかしたら普通と言うか、現実を打ち破る<棘>のようなものがない(アドルノはマーラーの壮大な交響曲群を前にして、その<棘>のことを・・・なんて言ったっけ?)。言いかえれば、<クール>なのか? でも<クール>が生まれたのは20世紀で、とっくに<クール>は死んでいる時代だ。いわば<クール>の残照と刷りかえしの音色。

菊地成孔 オフィシャル・ウェブサイト
 → PELISSE

おまけ。


DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN - structure ? la structure
浅田彰の『構造と力』による。
ちなみにこのビッグバンドでは、菊地氏はサックスを吹いていません。なるほど・・・

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 マイルス・デイビス、ビッチェズ・ブリュー、シャーマニズム、音の強度。

グールドに聴くリヒャルト・シュトラウス。

2009年06月15日 00:43


Richard Strauss "5 Klavierstücke Op.3 Andante"
リヒャルト・シュトラウス アンダンテ 『5つの小品 作品3』より

ロマン主義の時代に書かれた<まさにピアノのための作品>(例えばショパンやラフマニノフのそれを、彼は「ピアノに媚びて書かれている」と言った)を、自らのレパートリーから慎重に外していったグールドは、ブラームスの作品集を完成させたとき(最高傑作と言う人もいる)、その心情をこう吐露している。「わたしは、実はどうしようもなくロマン主義の人間なのです」。

もちろんグールドのブラームスは素晴らしい。

とりわけ白眉である『間奏曲』が、ブラームス最晩年の作品を演奏しているの28歳のグールドであるのに対し、リヒャルト・シュトラウスが16歳の時に作曲された『5つの小品』は、グールドが47歳の時に演奏されたものである(グールドは50歳で没したのを考えれば、それは最晩年と言える)。ちなみに同じくリヒャルト・シュトラウスが16歳で作曲した『ピアノ・ソナタ ハ短調 作品5』は、グールドが最後に録音した作品でもある。

シュトラウスが、厳格で保守的な教育と偉大なる先人たちの影響のなかで、紡ぎ出した作品3・作品5は、瑞々しい感性と豊かな抒情性を有している。とりわけここで紹介するアンダンテは、シューマンにも通じるファンタジーがある。

47歳のグールドは、その音楽に深い共感を示し、まるでそばに寄り添うように、そしてグールドなりの<どうしようもなくロマン的な>音楽を奏でている。このころになると、彼はピアニストというキャリアにも終わりを感じていた。事実、前述した『ゴルトベルク』の再録ののちにレコーディングしたシュトラウスの作品5は彼のピアニストとしての最後の録音で、グールドの生涯最後の録音は、ヴァーグナーの『ジークフリート牧歌』である。彼はその後のキャリアとして指揮者を選択していた。彼のピアノにしては珍しいほどの感傷が、この演奏から聴こえてくる。

ここに聴けるシュトラウスは、生涯を通して彼のスタンスが変わらなかったことを示している。めくるめくバッハも、静謐なシェーンベルクも、端正なヒンデミットも、そしてブラームスやシュトラウスもまた、グールドというピアニストの在りようを示している。

今の自分に最も染み込んでくる1枚でもある。



ブラームスに関してはまた次回に。


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 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽1
 

自然な<air>。

2009年06月13日 00:59


さっき、九品仏を越えて自由が丘の方まで走ってきた。
今日はゆっくり、地面を踏み、周りの景色を見ながら、走ってきた。


肩の力を抜く。
呼吸を整える。
無理をしない。


大切なことに近づいた気がして、自分の未来に近づいた気がして、はっとした。


あるがまま、自然でいること(別に森の中にいるという訳ではない)、
大きな流れに逆らわず、それでいて自分と世界を見失わない立ち位置に錨をおろすこと。

それがもしかしたら、<air>のすぐれたかたち、ありようなのかもしれない。

そう思ったら、久しぶりに世界がワクワクして見えた。


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コンサートのススメ:高橋悠治の肖像、稲は音もなくそだつ、水牛が耕すたんぼで。

2009年06月11日 00:40

常に追い続けたい存在はたくさんいるが、その中でもとびきりな一人、高橋悠治さんの<個展>とも言うべき演奏会が、水戸の芸術館で開かれる。

以下高橋悠治さんのウェブサイトから引用。

高橋悠治の肖像
企画・構成・出演:高橋悠治

2009年 7月18日 (土) 18:00開演 (17:30開場)
水戸芸術館コンサートホールATM
3,000円 学生1,000円

高橋 悠治(ピアノ、おはなし)、及川 夕美(ピアノ)、漆原 啓子(ヴァイオリン)、
波多野 睦美(うた、朗読)、笹久保 伸(ギター)、保田 紀子(パイプオルガン)、
志村 禅保(尺八)

高橋悠治 作曲
・クロマモルフ 2 (1964)(ピアノ:及川夕美)
・星火(2005)(ヴァイオリン:漆原啓子)
・なびかひ(2007)(ピアノ:高橋悠治)
・ジョン・ダウランド還る(1974)(英語朗読:波多野睦美、ギター:笹久保伸)
・はじまりのことば オルフェウス教の(1989)(ドイツ語朗読:波多野睦美、パイプオルガン:保田紀子)
*オルガン演奏はエントランスホールで行います。
・偲(しぬび)(2007)(尺八:志村禅保)(日本初演)
・名前よ立って歩け/最後のノート(1981)(うた:波多野睦美、ヴァイオリン:漆原啓子、ピアノ:高橋悠治)
・おやすみなさい(2005)(うた:波多野睦美、ピアノ:高橋悠治)
・さまよう風の痛み(1981)(ピアノ:高橋悠治)


音楽は、はじめもなく、おわりもなく、ひたすらすぎさるもの、友人たちへのおくりもの、
悼むひびきのひそやかさ、どこからともなく漂う、だれの声でもない ささやき。

ベ ルリンで書かれた、音域や残響の差と確率分布による『クロマモルフ(色のかたち)2』。スイスのフェスティヴァルで初演されたゲーテの詩によるオルガン曲 『はじまりのことば オルフェウス教の』。韓国の詩人高銀の詩につけた歌曲から抽出したピアノ曲『さまよう風の痛み』。韓国南部の民謡フンタリョンを解体再構成するヴァイオリ ン曲『星火(流星の火)』。時流に取り残された音楽家ダウランドの嘆きをてがみとリュート歌曲のパロディーで構成するギターと朗読のための『ジョン・ダウ ランド還る』。柿本人麻呂の挽歌による『なびかひ』と尺八本曲『偲(しぬび)』。沖縄の自立を夢見ながら自殺した中屋幸吉の詩による『名前よ立って歩け』 と『最後のノート』。石垣りんの詩による『おやすみなさい』。


果たしてどのような音が聴けるか。
個人的には『名前よ立って歩け』の実演に触れることに、興奮を禁じ得ない。そして久しぶりの磯崎新建築だー。


ちなみに水戸芸術館のウェブサイトのイベントプロフィールはこちら。
→ 高橋悠治の肖像
「円融無碍なる音の世界」という中村主任学芸員のプログラム・ノートもぜひご一読を。

ちなみに高橋悠治さんと水牛のウェブサイトはこちら。
→ 高橋悠治 Takahashi Yuji composer/pianist
未だに刺激的なコンテンツ。水牛はどこへ行くのか。ぼくにとっては、こちらの方がよっぽどCIだと思うのだけれども。某音楽事務所に比べて。


[image/air_ : 細越一平]

 高橋悠治に聴くバッハ、フーガト短調、シャコンヌ、トッカータとフーガ、マタイ。
 ジョン・ケージに関してのリンク、リアルタイム11ケージ(リ)ミックス、高橋悠治、ケージの音楽と<生>
 高橋悠治というプリズム。
 高橋悠治、質、茂木健一郎、他者の痛みを感じられるか、「言いたいことを言えない苦しみを味わったほうがいい」
 ことば?
 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽2
 創造の過程に グレン・グールドの音楽15

世論形成とコーポレート・アイデンティティ、社名をアルファベットにして何になる。

2009年06月11日 00:24


キューバのグアンタナモ収容所から、捕虜(テロ容疑者)がアメリカ本土へ移送された。
これを足掛かりに、オバマ大統領はこの負の遺産としてモニュメンタルな場所と化した当地の閉鎖を進めていくのだろう。
現代世界において、ニュースソースを隠蔽することなど不可能に近い。有利不利を問わず情報はまずボードの上に置かれる。大陸間弾道ミサイルの発射台も、地崩れの断層も、宇宙飛行士の着水点も、爆破された高級ホテルも。

しかし、情報は隠されない代わりに、巧妙に操作されるようになった。いや正しくは、一部の独裁的な国家を除き、情報は複層的に管理され、相対的にコントロールされる。一見なんの関係もない情報が、組み合わせられることでひとつの流れをつくられている(可能性がある)。それが世論形成だ。
世論形成もまた一義的なものにとどまらない。それは政体のみならず、ブランディング、プロモーション、リスク・マネジメント、プロパガンダ、各種マーケティング…外からの視線を集め、よりよく見てほしいという願望が、これほど強く表れている時代は現代をおいてほかにない。

社名を変えて世界が変わるわけではない。表記をアルファベットにしたからと言って、全ての企業がソニートヨタにはなれない。大切なのはその本質であり、企業であれば(様々な、かたちあるなし問わず)商品であり内実である。店の名前を変え、皿と調度品を変えたからと言って、料理の味が変わらずぼやけていて、熱いものも冷たいものもぬるく提供され続けるようでは、そのレストランが変わったとは言えまい。そしてそういうレストランの多くが未だに権威的で、得てして値が張る。根本的な部分で危機感を持っていないのだろう。
もちろんここでのレストランはあくまでも<喩え>である。

最も重視すべきはCIすなわちコーポレート・アイデンティティの本質部分であり、コア・コンピタンスである。つまりは伝えるべき内実で、それが強い企業であれば、小さかろうと必ず生き残る。それが、誰かに必要とされるのならば。

音楽を本当に大切にするのなら。
企業のゲームに踊らされてはいけない。それは肝に銘ずるところだ。


[image/air_ : 細越一平]


クリエイティブ・コモンズについて、CCJPのFAQからの引用、意思表示、<クエスチョン>。

2009年06月08日 23:37

クリエイティブ・コモンズについて。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンスは、各国の著作権法もしくはそれに隣接する関係法令に準拠して作成されていますが、それ自体が法的権限をもったり、著作権使用料を徴収したり、作品の盗用や改変を取り締まるものではありません。クリエイティブ・コモンズ・ライセンスはそれが作成された著作物、著作権者、利用者の利害関係や事項に一切の保障も責任も負いません。

それではクリエイティブ・コモンズ・ライセンスは何の為にあるのでしょうか?
クリエイティブ・コモンズは、我々にどんな利益を与え、どんな便宜を図ってくれるのでしょう?



クリエイティブ・コモンズ・ジャパンのウェブサイトのFAQにこのような文章があります。引用します。


Q.クリエイティブ・コモンズはどのような問題を解決しようとしているのですか?

A.創作物は、日本では創作されると同時に著作物となり、米国でもその創作物が有体物に固定されると同時に著作物になって、自動的に著作権が発生します。あなたがメモ用紙に書いた走り書きも、ペンがメモ用紙を離れた瞬間、あなたの著作物となり、あなたはその走り書きを複製し、配布する排他的な権利を得ます。日本を含め、一部の国では、そのような権利が発生するのには著作権表示すら必要とされていません。しかし、このように自動的に著作権が発生する仕組みとは違った仕組みを希望する方も多くいるかも知れません――特にインターネット上で創作活動を展開している人はそうです。インターネットは(少なくとも理論上は)制約のないコミュニケーションとコラボレーションを約束して来た場所です。それなのに、実際には、あなたが排他的に有している権利のごく一部だけしか主張するつもりがないとか、どのような権利も主張しない、ということを表明するための簡単な方法は存在していません。同時に、権利が主張されていない著作物を複製し、再利用したいと考えている人にとっても、著作権表示がなくても著作権が発生するという事情によって、利用できる著作物を見つけ出すことは簡単ではありません。私たちはこの2つの問題を解決するためのツールを提供したいと考えています。自由に、無料で利用できるライセンス群で、法廷での審理にも耐えるようなしっかりしたできのものでありながら、法律家でなくても使えるぐらいにわかりやすく、なおかつさまざまなウェブ・アプリケーションが認識できるぐらい技術的に洗練されているようなものです。


Q.CCライセンスで作品を公開するメリットはなんですか?

A.確かに現行の著作権法はCCライセンスより多くの法的な保護を提供していますが、CCライセンスでの公開にはいくつかの動機やメリットが考えられます。

自分の作品に基づいて他の人が何かを創り出しているという考えや、知的なコモンズに貢献しているという側面に魅了されているかもしれません。クリエイティブ・コモンズのコミュニティが成長していけば、新しい協調の方法の発展を手助けしているという満足感も持つことができるかもしれません。

学者は書いたものが複製・共有されることでその考えを世界に広められるかもしれません。駆け出しのデザイナーは、評判を確立するために自分のスケッチが自由に普及することを奨励するかもしれません。すでに有名になっている商業的ミュージシャンは、彼の完全に保護されているたくさんの曲に対する一般の興味を刺激するために、いくつかの曲をサンプルとして提供するかもしれません。政治活動家は無制限の複製を通じてできるだけ多くの人々にメッセージを届けようとするかもしれません。

CCライセンスは、著作権の最終的なコントロールをあなたに残しながら、こうしたストラテジーを応援します。



Q.クリエイティブ・コモンズ・ジャパンは何をしようとしているのでしょうか?

A.私たちの最初の目標は、著作物の利用許諾を与える際に用いるライセンスを一般の方々に無料で提供することにあります。
このライセンスは、著作者の方々が世界に向けて、自分の作品は一定の条件を満たせば自由に共有してよいものだということを明言するのに役に立つものです。
例えば、もしもあなたが著作者としてオンラインで公開された画像について、「あなたへのクレジットさえつけてくれれば複製したり無断で配布したりしても構わない」と思っているのなら、あなたのそのような意志を明確に伝えるのに役に立つようなライセンスを用意しています。
もしもあなたのバンドのMP3ファイルについて、「自由に複製してもよいけれども無断で営利目的に使って欲しくない」ということであれば、私たちが用意したライセンスの一つを、そのような意志の表明にご利用いただくことができます。

私たちのライセンス選択ツールをお使いになれば、メニューから好みのオプションを選ぶことであなたの希望に最も近い条件の組み合わせを探しあてることもできます。
「表示」はあなたに対するクレジットを与えることを条件にして、他の人があなたの作品とそれに基づく二次著作物を複製、頒布、展示、上演、演奏、口述、上映、公衆送信、翻案することを許可するものです。
「非営利」は、非営利目的に限って、他の人があなたの作品とそれに基づく二次著作物を複製、頒布、展示、上演、演奏、口述、上映、公衆送信、翻案することを許可するものです。
「改変禁止」は、作品の二次著作物ではなく、その作品そのままの複製だけを複製、頒布、展示、上演、演奏、口述、上映、公衆送信することを許可するものです。
「継承」は、あなたの作品に付されているライセンスと同一のライセンスに基づいてのみ、二次著作物を頒布することを許可するものです。

お好みのライセンスを選んだら、そのライセンスを用いていることを表示するために、3つの方法を用意してあります。
1. コモンズ証:簡単に、わかりやすい言葉で書かれたライセンスの概要で、対応するアイコンとセットになっています。
2. 法的コード:実際に作品の利用条件を決定している部分で、法廷で通用するような、ライセンスの文面。
3. デジタルコード:検索エンジンやその他のアプリケーションが理解できるようにライセンスの内容を説明したデータ。

もしもあなたが全ての著作権を放棄したいということであれば、――ちょうどベンジャミン・フランクリンからソフトウェアの先進的な開発者たちがそうしたように――私たちはそれもお手伝いします。あなたはあなたの作品を、パブリック・ドメインとして知られる、制約条件の課されていない創作物の共有領域に寄付することができます。ここでは何も所有されておらず、どのような利用も自由です。言い換えれば、私たちはあなたが「No rights reserved」と宣言することをお手伝いできます。

  ――クリエイティブ・コモンズ・ジャパン FAQより(下線は細越)



少し端折った言い方をすると、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスは、それが著作物に添付されることによって、「わたしは この作品を このように つかってほしい」という意思表示を行うことの円滑な手助けになろうとしていると、私は理解しています。とりわけ、インターネット上のインタラクティヴなコミュニケーションが発達している現在において、著作権管理の新たな方策のひとつとして、注目すべき動き・概念であると思います。

例えば車社会、これだけたくさんの車が事故も少なく整然と運転されている理由のひとつとして、ドライバーが交通標識を見て、その意味を理解し、それに従って運転していることがあるでしょう。クリエイティブ・コモンズも、その意味が正しく理解されてなければ、ある種の学術的なサークルの枠を出ません。

日本の、特に芸術音楽の領域における著作権を取り巻く環境に<クエスチョン>を抱かざるを得ない現在、それを突破するひとつの可能性として、自分自身学びたい気持ちから、これからも継続してクリエイティブ・コモンズについて取り上げていきたいと思います。

[image/air_ : 細越一平]

関連した記事
 実際にクリエイティブ・コモンズのライセンスを作成してみた。
 著作権法、<記号論的恐怖>。
 ON CLASSICAL、クリエイティブ・コモンズ、JASRAC、日本の著作権事情に思う。
 クリエイティブ・コモンズの概要、CCライセンスに基づき転載。

著作権法、<記号論的恐怖>。

2009年06月08日 01:49


日本における著作権関係に関しての資料は社団法人 著作権情報センター に詳しい。
使い勝手も○。見やすい。

件の著作権関係法令もこのサイト内のデータベースにあります。ご興味のある方はどうぞ。
著作権法


インターネットの普及とインフラ整備のもたらした最大の功績は(僕が言うまでもなく)世界中を<情報>と言う観点で等距離にしたことだろう。脳の、とりわけ知識の集積場のアウトソーシング化、コミュニケーションの直接化(<求める情報は全て手の届く範囲にある>)。

隠喩的意味合い>(これももはや前時代的表現か?)において、大江健三郎の<チョウソカベ>であったり、村上春樹の<やみくろ>は、このような現代において、どこに行くのだろう? 得体の知れない、記号的な惧れの対象。
少なくともクラシック音楽の世界においては、<JASRAC>という記号が跳梁していたように思われる。その<記号的恐怖>は、コンサートプログラムから<作曲者を名前を奪う>。


あくまでも<記号的>な話です。念のため。

[image/air_ : 細越一平]

関連した記事
 実際にクリエイティブ・コモンズのライセンスを作成してみた。

実際にクリエイティブ・コモンズのライセンスを作成してみた。

2009年06月08日 00:57

さて、これはなんでしょう?
iphone1
Creative Commons License
chikaplogic/clip_image001 by ippeihosokoshi is licensed under a Creative Commons 表示-非営利-継承 2.1 日本 License.

実際にクリエイティブ・コモンズのライセンスを作成してみました。
どうぞ上の標識のような図をクリックしてみてください。この画像に選択したライセンスが表示されます。< Creative Commons 表示-非営利-継承 2.1 日本 License>というのがその名称です。

これにより、上記の画像(ippeihosokoshiに帰属する著作物)を使って、第三者は、複製、頒布、展示、実演を行い、二次的著作物を作成することが可能になります。
ただし、この作品の利用にあたっては、原著作者のクレジットを表示しなければなりません。また、この作品を営利目的で利用してはなりません。もしこの作品を改変、変形または加工した場合は、その結果生じた作品をこの作品と同一の許諾条件(つまり、< Creative Commons 表示-非営利-継承 2.1 日本 License>の条件)の下でのみ頒布することができます。
なお、著作権者の許可を得れば、上記の条件は適用されません。つまり、営利目的での使用も可能になるということです。

今回、ライセンスの作成にあたり、追加項目(作品の名称、著作権者の名前、URL)を入力しての作成でしたが、所要時間は3分もかかりませんでした(けれども、それを理解するまでに3時間くらいかかりました)。とても簡単です。

実際にライセンス作成をしてみて再確認することは、権利に対して私たちは恐ろしく無知(もしくは無頓着)であることです。他ならぬ<最強の著作権法に守られている>とされている日本で、少なくとも学校教育において、著作権その他に関するの知識をほとんど与えてられていないというパラドキシカルな状況は、理解に苦しみます。だからこそ、音楽に関してはJASRAC(日本音楽著作権協会)の揺るぎない一元管理という、いわば搾取的な状況にも枕を濡らし耐える「おしん」的状態が続いているのかも知れません。
クリエイティブ・コモンズの紹介を通して、著作権(法)に関しての自らの再認識と問題提起を含めて、理解を深めていきたいと思います。

なお、私個人として専門的な法律の知識を持ち合わせているわけではありませんので、万が一誤った表現などがありましたらご連絡頂けると助かります。また、このブログの文章の全体および一部の引用、転載などによりその方が被害を被った場合も、私は一切の責任を負いかねますので、その点はご了承ください。

[image/air_ : 細越一平]

関連した記事はこちら
 著作権法、<記号論的恐怖>。
 ON CLASSICAL、クリエイティブ・コモンズ、JASRAC、日本の著作権事情に思う。
 クリエイティブ・コモンズの概要、CCライセンスに基づき転載。

サティ<乾からびた胎児>、ナマコの胎児、ゴロゴロ。

2009年06月07日 23:33

エリック・サティ <乾からびた胎児>第1曲より
 (秋山邦春訳 『卵のように軽やかに サティによるサティ』)


ナマコの胎児
 無学な者は これを「海の胡瓜」などと呼ぶ。
 ナマコは いつも石の上とは岩場によじのぼっている。
 この海の動物は まるで猫のように喉をゴロゴロ鳴らす。おまけに嫌らしい糸を引く。どうやら日光の作用を嫌うらしい。
 私はサン・マロ湾で 一匹のナマコを観察した。


朝の外出
        雨が降っている
 太陽は
     雲に隠れている
かなり寒い いいぞ!
     かすかなゴロゴロ
     なんてすばらしい岩だ!
      これは住むにはもってこいの場所だ
歯痛で悩むうぐいすのように
 夕方帰宅
        雨が降っている
 太陽は もう沈んだ
        戻ってこないといいんだが
 かなり寒い  いいぞ!
     かすかなゴロゴロ
     あれは本当にすばらしい岩だったよ!
           ねばねばしてね!
 笑わせるなって! 苔の塊り奴(め)
 くすぐったいんだよ
タバコがない
     幸いなことに ぼくはタバコを喫わないんだ
         壮大に 君のベストをつくせ!
 


有名な「歯痛で悩むうぐいすのように」という演奏指示?(興味を引く・あるいは逸らすためとも言われる)、唐突に打ち鳴らされる終末、なによりそのグロテスクなタイトル。しかしその音楽は非常に繊細で美しく、詩的で、不可解だ。「壮大に 君のベストをつくせ!」突然の終和音の連打。それは第3曲「柄眼類の胎児」では、まるで<終わるために始める>かのように執拗に展開される。

1913年の作品。

[image/air_ : 細越一平]


ネットTAMリレーコラムより、続けることとはじめること。

2009年06月05日 23:59

今月の ネットTAM のリレーコラムは金丸悠児氏。

 『アーティスト集団のすすめ 
  金丸 悠児(かなまる ゆうじ)
  画家/C-DEPOT代表 』


アートを作る側と企画する側からの視線を関わり方についての文章である。その内容に様々な意見はあるとしても、肩の力を抜き、とてもリラックスしたその姿勢に学ぶことは多い。

僕はアーティストなので、アーティストの視点でどのような活動が自分たちにとって一番理想的かを突き詰めて、現在の形に至っています。自由な表現が最優先、社会性や時代性は二の次。難しい展覧会はその道の専門家に任せて、まず自分たちがワクワクして楽しむこと、そしてそれを来場者と共有すること。それが僕にとってのアートマネジメントです。


7000人の入場者を集めるようになったというC-DEPOTも、7年という継続と経験の培ったものであるという。
C-DEPOT ONLINE

大切なのは<続けること>。<はじめること>に必要なエネルギー、つまり球を転がすためのそれと、その球を転がし続けることのエネルギー。球が大きくなればなるほどそこには違う力がかかってくる。そして今という時代において、前提として球を転がすための路面の厳しさは誰しもが知るところだ。

それを打破するもの、それもまた勇気だ。


[image/air_ : 細越一平]

 ネットTAM・竹本清香さんのリレーコラムに思う。



バッハ『平均律クラヴィーア曲集』、ボイジャー。

2009年06月05日 01:02


毎朝、流れゆく人波を見ている。

数多の顔があり、幾多の人生が足早に続いていく。そのどれもが、以前にみたことがあるようでいて、それでいて決してそのどれもが同じものはない。集合に見えるそれらは、しかしそのどれもが別々の時間を生きている。

バッハの『平均律クラヴィーア曲集』を聴いている。ハンス・フォン・ビューローはこの作品をして<鍵盤音楽の旧約聖書>と呼んだ。文字通り、鍵盤音楽の金字塔であり、そこに全てが書かれているという音楽家もいるほどである。


バッハの音楽はこう語りかける。すなわち、<眼差しを己に向けよ>と。


いつの間にか自他を比較している自分がいる。これからの行く末に光を見出せないまま、今の自分が何処に立っているかわからなくなる。

バッハの音楽は、それを構成する何者の要素にも依らない。バッハの音楽はその完成された構成に拠って音楽たりえる。だからこそその音楽は厳しく、そして圧倒的な自由を感じさせるのだろう。

結局は自分がいかに生きるかということだ。バッハの音楽は正しくそのことを伝えてくれる。





グレン・グールドによる『平均律クラヴィーア曲集』。実は全集の録音に、グールドは9年ほどかけている(その間に、あのモーツァルトのピアノ・ソナタの録音も為されている)。このレコードは、人類を代表する音楽として、ボイジャーに乗せられた。今頃は太陽系を離れ、広大な宇宙の何処かで、誰かに聴かれることを待っているはずだ。


[image/air_ : 細越一平]



『スカイクロラ』、語り部としての押井守。

2009年06月02日 00:46

TSUTAYAで『スカイクロラ』のDVDを借りてきて、大迫力18インチのテレビデオ(モノーラル!)で観た(今更!)。

映画について語るべきことは特にない。素晴らしい映画。語られるべき言葉はおそらくもう語り尽くされているのだろうし。


押井守の作品では、ダイアログ(対話)がいつの間にかモノローグ(独白)に刷り代わる。
そしてその科白が失われる。登場人物をして語られるのは、押井というフィルターを通した世界の声だ。そういった文脈で、押井は当代きっての語り部である。

『ビューティフル・ドリーマー』、『パトレイバー2』、『甲殻機動隊』、『イノセンス』・・・

以前山形の<国際ドキュメンタリー映画祭>で『パトレイバー』を上映し、そのプレトークで押井監督が来る!と言うことで大興奮した高校生の自分。しかし会場には脚本の伊藤氏(確か上山出身だったとか?うろ覚え)の姿。

押井監督は愛犬が出産するとかで来なかった。

それで僕は徹底的に押井監督が好きになりました。


[image/air_ : 細越一平]



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