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ぼくが音楽を生業(なりわい)にしようと想った訳③。

2009年07月31日 02:01


渡瀬氏の手伝いでいったルーマニア。

オフの日に、皆で観光タクシー(ロールスロイス!)に乗って野を越え山越え谷越え。

タクシーの運転手は若く英語が通じた。
彼の夢は、語学力を活かして世界中の人にルーマニアの良さを伝えることだという。

その割にはいく先々のスポットが全て休館というウルトラCをやってのけた。



山道を車で進んでいると、丘の中腹にひとりの少年がいた。かたわらに犬を連れていた。
「あの少年は何をしているの?」とぼくはタクシーの運転手に尋ねた。

「あの子は羊飼いの子供だ。あの子の父親も、その父親も、ずっと羊飼いだ。
あの子は生まれた時から羊飼いで、あの子の子供も、羊飼いだ」


ルーマニアに行ったのは1月で、次の4月から、ぼくは大学に戻ることを考えていた。
普通なら就職活動をしていないと遅い時期だ。
それでもぼくは迷っていた。就職をしてどうするかと。

自分には何ができるのか、自分は何をするべきなのか。
可能性は手の中から溢れてこぼれ、それを掬おうとしてまたこぼれた。


その羊飼いの子供は、とても幸せそうに見えた。

彼は笑顔だった。生まれつき羊飼いであることを定められた彼は、その人生を全うすべく、与えられた環境を楽しみ、生き切ろうとしているようにみえた。キラキラと、眩しかった。

ロールスロイスの窓越しにもう一度彼を見つめ、そして決めた。

5年を学びのために使おうと。


1月の終わりには日本に戻り、10日後には念願だったウインド・アンサンブルのコンサートを立ち上げ(ensemble_TSUKUBAという団体で、メンデルスゾーンやバッハ、伊藤康英の作品を指揮した)、4月に復学し、5月には当時外食産業で最も勢いがあった、渡邊美樹さんの会社に入社することが決まった。


ぼくは、ルーマニアの少年の姿を、決して忘れまいと、目に焼き付けた。
今もはっきりと浮かんでくるその笑顔が、今も改めて自分の背中を押していると感じる。



[image/air_ : 細越一平]

 ぼくが音楽を生業(なりわい)にしようと想った訳①。
 ぼくが音楽を生業(なりわい)にしようと想った訳②。

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ぼくが音楽を生業(なりわい)にしようと想った訳②。

2009年07月31日 00:32


ぼくが音楽を生業(なりわい)にしようと思ったきっかけ。

 ぼくが音楽を生業(なりわい)にしようと想った訳①。

もうひとつは、ある音楽事務所が休止という形で、幕を閉じたこと。
2001年以降のあの不況下において、音楽事務所はどんどん潰れていった。

そしてその流れは、いっときの好況を経てもなお、とどまることはない。



どれだけ素晴らしい音楽家がいても、その音楽が人の耳に届かなくては意味がない。

そしてその想いもまた、数年の年月を経てもなお、変わることがない。


「音楽を生業にする」という気持ちから、ぼくは大学を休学し、下北沢に住んだ。

バイトをし、何とか生活をし、コンサートを聴きに行き、いくつかのコンサート制作に関わり、そして酒を飲み、数え切れないほどのタバコをふかし(今は禁煙者)、音楽のことを想い、そして音楽家と酒を飲み、ぼんやりとした夢を考え、アエロフロートから人間の小ささと確かさを同時に感じ、ベルギーの空気を吸い、ルーマニアで自分の意思を知った(ルーマニアでは不法就労の中国系と間違われもした)。


職業にはふたつの種類があるという。

職人と商人。


ルーマニアから帰ってきて、ぼくは商人になることを決めた。

音楽を、そして素晴らしい音楽家の音を、世界に届けるためだ。


[image/air_ : 細越一平]

 ぼくが音楽を生業(なりわい)にしようと想った訳①。


ぼくが音楽を生業(なりわい)にしようと想った訳①。

2009年07月30日 01:06

ぼくは、[image/air_]というなんとなく意味深めいた言葉に導かれて(あるいはそれをマイルストーンのように据えて)、音楽を生業(なりわい)にしたいと考えている。

そう想うようになったのは、今から10年前。

2つのきっかけがあった。


20才の時、ぼくは大学の吹奏楽団に所属して、指揮者をしていた。
春、三善晃『深層の祭』とスパーク『オリエント急行』を振ることになる。
大学にはパート譜はあるもスコアだけ何故か失われていて、ぼくは母校の高校から借りることにした(これが当時の学生団体の現実です失礼!)。

送られてきたスコアには、いくつかの書き込みがあった。


Sさんという先輩がいた。
3つ上の先輩だったので、実際にお会いしたのは6年間で3回だけ。

しかしぼくには、ご縁があってその先輩の影響がとても強かった。
音楽の楽しみを教えてもらったといっても過言ではないくらいに。高校3年生のコンクールは、何故かその先輩と一緒に聴いていた。
グラズノフの『秋』の演奏を、とてもよく覚えている。



S先輩はとてもエネルギッシュな人で、仙台の大学に進学後、オペラに携わったり金管バンドを立ち上げたりと音楽に関わったのち、東京の音楽大学で指揮を学んでいた。イタリアへの留学も決まっていたと聞く。


ぼくは自分が指揮をするにあたり、一番にその先輩に聴いてほしいと思っていた。
今、自分はこんな音楽をしています、それはあなたのおかげですと。

スコアの書き込みは、その先輩のものだったことも知った。
ぼくはその先輩に手紙と招待券を送るつもりだった。


しかしそれは果たすことができなかった。

その先輩が、事故で亡くなってしまったのだ。


その葬式はとても寂しく、ぼくが演奏会で着るはずの礼服は、喪服になった。
指揮者のIさんからも弔辞が届いていた。


音楽をしたくてもできない人がいる。
夢を叶えたくても、叶えられなかった人がいる。


ぼくはその時に、その先輩の分まで、音楽をすることを決めた。

いのちがある限り、音楽のために生きようと決めた。

それがぼくなりの感謝の気持ちであり、礼儀であると想ったのだ。


それが、ぼくが、音楽を生業にしようと想ったひとつめの理由。


[image/air_ : 細越一平]

 image/air_ についてはこちらの記事をご覧ください。
  見るまえに跳べ


Hobnox - Audiotool

2009年07月28日 22:16

結構前に友人に教えてもらったが、最近になってまたちょこちょこ遊んでいる。
それがこれ↓

Hobnox - Audiotool

とにかく遊んでみてください。
Tone Matrixが一番楽しいかも。とりあえずPLAYボタンをクリックして、マトリックスをいじるだけでも楽しめる。つまみをいじって、ラインを抜き差しして・・・そして時間が経つのを忘れる・・・。

TR-909・TR-808・TB-303、そんな往年の名機が、ブラウザ上でいじり倒せるわけです。
それにしても、こんなオープンソースが出るとは、15年前には全く考えられなかった訳で・・・

ウェブサイトはこちら↓

Hobnox Open Source
Open minds. Open source.


あまり夜更かしはし過ぎぬよう。


[image/air_ : 細越一平]

クリエイティブ・コモンズ・ジャパンから、日本版フェアユース導入についてのアンケート。

2009年07月27日 23:41


クリエイティブ・コモンズ・ジャパンのウェブサイトより。

日本版フェアユース導入についてのアンケート、開始!

CCの「表示」ライセンスのもと、「日本版フェアユース」導入に賛同する趣旨のもと、クリエイティブ・コモンズ・ジャパンのウェブサイトより引用します。

--------------------
日本版フェアユース導入についてのアンケート、開始!
2009年07月19日
<アンケートの目的>

  現在、文化庁では、著作権法の改正の1つの重要問題として、コンテンツの創作や利用に大きな影響を与える可能性のある、「日本版フェアユース」の導入についての議論がなされています。今年はこの日本版フェアユースを導入するか否かを決めるとても大事な年です。 

 そこで、クリエイティブ・コモンズ・ジャパン(CCJP)では、実際に広く創作活動やコンテンツの利用に関わっているクリエイターやユーザーの方の意見を集めて、この議論に反映させるために、日本版フェアユースに関連する問題についてのアンケートを実施することにしました。

 ・集計期間:07月24日(金)から 08月17日(月)まで
  >>> アンケートに答える

<フェアユースとは?>

 フェアユースとは、分かり易くいうと、作品(著作物)の利用が「フェア」であると思われる一定の条件に当てはまる場合には、その作品について権利を持っている人(著作権者)の許可をもらわなくても、合法に利用ができるという制度のことです。

 現在の日本の著作権法では、例えば、教育のための教室内での利用ならば許されますが、教育目的でも学校のウェブサイトで公表するのはダメです、などといったように、著作権者の許可をもらうことなく利用ができる場合について、具体的な状況や利用方法を細かく定めています。しかし、世の中には新しい利用方法が次々に登場しますし、その中には、著作権者の許可をもらわなくても利用できたほうがよいものもあるかもしれません。

 日本版フェアユースが導入されると、いま著作権法で具体的に定められていない利用方法でも、一定の要件をみたすフェアな内容である場合には、著作権者の許可をもらうことなく利用できる可能性が出てくるのです。(どのような要件がフェアなのか、についても、まだ議論中です。)

 その一方で、著作権者の許可をもらうことなく利用できる範囲を増やしてしまうと、著作権者が嫌だと思っているような利用をされてしまうこともあります。また、どのような利用がフェアで、どのような利用がフェアでないのかについての予想も立てづらくなる場合があります。

 このようなメリットとデメリットを考慮した上で、どんなフェアユースが望ましいのかについて議論がされています。

 > 資料:日本の著作権法と権利制限の一般規定(いわゆる「日本版フェアユース」)について

<このアンケートに参加してほしい人>

 フェアユースが導入されるかどうかは、普段から創作活動をしている人はもちろん、ひろく日常的にコンテンツに接している人全員にとって、大きな影響があることです。例えば、ブログを書く、デジカメで写真を撮る、イラストを描く、プログラムを書く、動画や音楽を作る、掲示板にコメントを残す…などなど、日常で著作権と関係のあることを数えだすときりがありません。
 また、コンテンツを作るときに他の人のコンテンツをどのように利用するかという場面だけでなく、自分が作った作品が他の人にどのように利用されるのかという場面も考える必要があります。

 ふだん、みなさんがコンテンツを作り利用する時に、どのような感覚を持っているかについて、意見を集める機会はなかなか多くありません。このアンケートでは、ひろくみなさんの意見を聞かせてほしいと思っています。今回のアンケートの結果は集計して文化庁の審議会へ提出する予定です(また集計結果もCCJPホームページにて公開予定です)

 みなさんの声を文化庁に届けるために、どうぞご協力ください!

 ・集計期間:07月24日(金)から 08月17日(月)まで
  >>> アンケートに答える

 NPO法人クリエイティブ・コモンズ・ジャパン事務局


[image/air_ : 細越一平]

 MUSIC FOR FREEDOM、イランの自由、自由のかたち、音楽の自由。
 Sutros、クリエイティブ・コモンズ導入の実例、今後の可能性について。
 ON CLASSICAL、クリエイティブ・コモンズ、JASRAC、日本の著作権事情に思う。
 クリエイティブ・コモンズの概要、CCライセンスに基づき転載。
 実際にクリエイティブ・コモンズのライセンスを作成してみた。
 クリエイティブ・コモンズについて、CCJPのFAQからの引用、意思表示、<クエスチョン>。
 著作権法、<記号論的恐怖>。
 

MUSIC FOR FREEDOM、イランの自由、自由のかたち、音楽の自由。

2009年07月27日 22:28


クリエイティブ・コモンズ・ライセンス関係から。

MUSIC FOR FREEDOM
AFTER SILENCE WHAT COMES CLOSER TO EXPRESS THE INEXPRESSIBLE IS MUSIC


Music for Freedom
Gathering musical talent towards one goal.

Important Notice
The final mixes will be released under a
CC BY-NC-SA license.
We ask that all contributors upload their works (be it to Indaba or to Soundcloud) under the same license.

「CC BY-NC-SA license」:表示、非営利、継承


自由とは何か。
様々なかたちの自由がある。

それはもちろん、アメリカにも、イランにも、日本にも。
しかしそのかたちが、時に人を苦しめ、傷つけ、そこなってしまうのも事実。
ありていな自由が、ありふれているような自由が、逆に人を不自由にしてしまうこともある。
自由のために、という言葉でどれほどの欺瞞と血が流れたかは、今更語るまでもない。

では音楽における自由は・・・?

音楽の語る自由については、ボブ・ディランに聞いてみるといい。


[image/air_ : 細越一平]

 Sutros、クリエイティブ・コモンズ導入の実例、今後の可能性について。
 ON CLASSICAL、クリエイティブ・コモンズ、JASRAC、日本の著作権事情に思う。
 クリエイティブ・コモンズの概要、CCライセンスに基づき転載。
 実際にクリエイティブ・コモンズのライセンスを作成してみた。
 クリエイティブ・コモンズについて、CCJPのFAQからの引用、意思表示、<クエスチョン>。
 著作権法、<記号論的恐怖>。
 

グレン・グールド、ヒンデミットのフーガ。

2009年07月27日 01:53

グレン・グールドにおいては、<演奏者なる名>すら音楽の前には不要である。
何故なら、彼にとって、創造という作業を担うのは作曲家ではないからだ。
かといって、演奏者も創造者には成り得ない。

彼のうちでは、まさしく両者が創造に至る過程を分担してこそ、音楽が音楽たり得るのである。



Glenn Gould : Paul Hindemith,Piano Sonata No. 3 Fugue


[image/air_ : 細越一平]

 グールドに聴くリヒャルト・シュトラウス。
 創造の過程に グレン・グールドの音楽7
 グレン・グールド『パルティータ変ロ長調BWV825』、その演奏の作法とエスキス、ギフト。

盆踊り、蝉、夏。

2009年07月26日 00:32


この二日、かの有名な尾山台ハッピーロードでは盆踊り大会。

matsuri2

出店が10軒くらい、こじんまりしてるけど何となくみんな幸せそう。

matsuri1

何年か居酒屋の店長をやっていたけれど、地下の店が2年も続くと、何となく体から四季の感覚が抜けていた。

夏に仕事を離れてもうすぐ1年。
今年は久しぶりに夏らしい感覚。

semi

部屋の網戸に

なにかの始まりを、告げに来たか。

ミ?ン、ミンミン。


[image/air_ : 細越一平]


ヴュー@ゴーギャン展、ゆとり教育? 問いかけも謎も曖昧。

2009年07月23日 01:04

そういえば、ゴーギャン展。
いってきましたよ、ゴーギャン展。

ゴーギャン展@東京国立近代美術館

もちろんお目当ては「あの大作」。

感想としては、展覧会全体のキュレーションに「?」という感じ。
3つのパートに分け、生涯をほぼ網羅した作品をほぼ時系列順に並べていくという手法。
そして「われわれは?」を挟んで、解説的な映像と、関連した図表を配置するというもの。

焦点は何処にあるのか、つまり、ゴーギャンの人生と芸術全体なのか、「われわれは?」なのか。
「謎」として「われわれは?」を観る側に投げかけるのか、それともある種の導線を示しながら提示するのか。
そのあたりが不明瞭であるので、全体もひとつひとつも(「われわれは?」も含む!)ぼんやりとして、本来のインパクトが失われてしまっている。皮肉なことに、作品の<野生>が、牙を抜かれてしまっているのだ。

みどころのひとつとして挙げられている「われわれは?」に対する「多角的なアプローチ」に関しては、ここでも「ゆとり教育」の弊害か?と、少々辟易。
数学の証明問題で、問題を解くどころか見る前からチャートで答えが示されているような展示の道筋。
どんどん日本人はバカになっている、考える力がなくなっているという言説をよく目にするが、それよりも危惧すべきは<想像力の欠如>である。今更僕が言うまでもないが。

また、さらにみどころのひとつとして挙げられている「われわれは?」の展示方法。非常に残念なことに、照明のせいで近づいても遠ざかっても絵の上部の色彩が見えづらい。他の作品でも何点か絵に光が入ってしまっているものがあった。これは即改善すべきであろう。


久しぶりの東京国立近代美術館。文化施設の資産価値を活かし切れていないことは変わらない。



もしもう一度この展覧会に行くことがあるなら、そしてこれから行く予定がある方は、このような観方はどうだろう。
?入場したら、脇目も振らず「われわれは?」に向かう。
?そのインパクトを焼きつけつつ、時系列順にはじめから観る。
?もしくは版画の部分から先に見る(印象が違うはず)。
?再度「われわれは?」に辿りつく。
?そのあとの最晩年の作品を鑑賞し、再度「われわれは?」に戻る。
?1500円のもとを取りたいなら、「われわれは?」前後の映像や図表を見てみる。

すこし乱暴ですが、ご参考までに。多分周りからはヒンシュクかいそう・・・


自分がキュレーションして、会場の制限とかを考えなければ、まず導入にゴーギャンの言葉とタヒチの神話を並置して、続く大部屋に「われわれは?」を展示。
その大部屋からは3つの部屋に自由に行き来できる。1つめはタヒチ前までの作品。2つめはタヒチ以降。3つ目はタヒチとヨーロッパの時代背景と、ゴーギャンの作品のモチーフとなったミイラやレリーフなどの、ゴーギャンが見たものを展示する。
入口と出口は同じ。来たところから戻る(会場は大混乱!)。


次は・・・世田谷美術館に期待。

 メキシコ20世紀絵画展


[image/air_ : 細越一平]

皆既日食に思う。

2009年07月22日 22:22


テレビは皆既日食でもちきりの1日。

ご覧になった方もたくさんいると思うが、太平洋の船上から360度パンするカメラの映し出す映像は、うちの19インチのテレビデオからでも、まるで異世界のようだ。
月の影が空を覆い、遠く水平線上だけがオレンジに染まる。雲が逆光を浴び、黒い影として浮かんでいる。

ふと、ショー化された皆既日食を眺めながら、太古の人々は、そしてまだ科学が浸透していなかった世界の人々は、どのような心境だったのかを想像する。
古の中国では、日食を吉兆と捉えていたこともあるそうだが、いのちの源であり、振興の対象でもあった太陽が漆黒に包まれるという光景は、押し並べて不吉で忌々しい光景であったと思うには難くない。暗闇に覆われる日食の間に禍々しきものが大地の彼方より這い出してくるイメージは、突然憑かれたように叫び出す動物たちとも重なって、にわかに現実味を帯びてくる。この時間に生まれた胎児はみな殺された、という伝奇もある。
そして一方では、神秘的な日食という現象は、やはりこの世のものとは思えないほど神々しい。美と怖れは表裏一体だ。それは生と死のアイコンであり、決して振り返ってはいけない地上への道でもある。

しかし、現代社会、そのメカニズムを知り、<イベント=出来事>のひとつとなった日食は、意味不明な歓喜ありフィーバーありだが、その現象そのものの<厚み>のようなものは失われてしまった。情報や知識に溢れる都市に住む我々に、光と闇の移ろいは余りに乏しい。

オルフェウスが、イザナギが、振りかえらずにはいられなかった魅惑する神秘の闇は、すでに失われてしまった。



そんな世界のただ中で、生と死、光と闇、瞬間と永遠を描く音楽は、どのように響くのか。例えばドビュッシー、例えばショパン… 
そんなことも、思ってみた。


[image/air_ : 細越一平]



夢が形をとる、『リヒテルは語る 人とピアノ、芸術と夢』。

2009年07月21日 22:42

『リヒテルは語る 人とピアノ、芸術と夢』(ユーリー・ボリソフ著、宮澤淳一訳、音楽之友社、2003年)について。

64才のリヒテルと、23才の著者ユーリー・ボリソフ。

雪男、幽霊、暴徒そして、まるで神のようなリヒテルのとの出会いから、リヒテルの意識の流れを辿って行く旅は改めて美しく、挑発的だが親密である。彼の愛してやまないプルーストのかの作品のように、これはリヒテルの思考と記憶のとめどない流れを記した本であり、同時にユーリー・ボリソフがリヒテルと過ごした日々への回想によって、リヒテルその人へと近づいていこうとする書物。
そこでは、<ピアニスト>という形容に留まらない20世紀の巨人リヒテルと、優しく、時に子供のように純粋な愛すべきリヒテルとの姿が交叉する。

読後感は、リヒテルの言葉の洪水とともに、その人間臭さに尊敬と親しみを覚える。終わりに差し掛かる第20章「デルフトの眺望(ドビュッシー)」を読む頃には、終わりゆく旅と人間リヒテルとの別れに、寂しさすら感じるはずだ。

77才のリヒテル。老いと衰えは否めない。86回弾いたモーツァルトのイ短調に、「これ以上弾くと、曲がだめになってしまう」と言い、一方でスクリャービンやフランク、ショパンの数回で離れた作品を思い出す。それに続くこの言葉が印象的である。


ベートーヴェンのソナタ第28番は潮時を逃したな。だからあの曲は投げ出すことができない。磁石のような存在になっている。そこでこう決めた。これは作品番号101、つまりベートーヴェンにとって101番目の作品なのだから、101回演奏してやめにしよう、と。まずまずの演奏をし、楽譜を閉じ、十字を切った。あのソナタは私に55年も尽くしてくれた。私もあのソナタに同様に尽くしたのだ。


フェルメールが描いた「デルフトの眺望」の場所から、昼夜を通してピアノを演奏する、そんな夢を語るリヒテル。それは驚くほどに美しい追想で、リヒテルとともに旅をしてきた読み手の心にも来るものがあるだろう。リヒテルの心は決して老いていない。彼はスクリャービンの言葉を引いてこう告げる。

「夢が形をとる」と。


[image/air_ : 細越一平]

  『リヒテルは語る 人とピアノ、芸術と夢』。

アーノンクールのブラームスに聴く<つながり>の連想。

2009年07月19日 01:26

ニコラウス・アーノンクールの演奏は、時に作品から様々な<つながり>を拡げる。それもまた魅力のひとつ。第4交響曲で感じたメンデルスゾーンの面影のように。
アーノンクールの指揮するブラームスのシンフォニーから、感じたままに。



交響曲第1番

終楽章、ベートーヴェンの狂騒を凄まじいスピードで――ともすれば「かいつまんで」――俯瞰するコーダは、マーラーの語り口にも似ている。
アーノンクールがベートーヴェンの「英雄」や第9で聴かせたように、金管楽器の音響への執念は、唐突とも思えるほどに衝撃的だ。トロンボーンによるコラールは作品から飛び出して、音楽のそもそもの祝祭の風景、同時に土俗的なるものと繋がっているようだ。それは例えばモンテヴェルディの「オルフェオ」。


交響曲第2番

冒頭、1番(≒ベートーヴェンの第10交響曲)へのデジャヴが顔を覗かせるも、それが手を差し伸べるのはドヴォルザークだ。
第2楽章の息の長いフレーズは、緊張感を保ちながら歌いあげる。聴き手は様々な情感を喚起させられるのは、そこに言語としてのニュアンスが込められているからか。同様なことが、1番の4楽章、最も有名な旋律の扱いにも言うことができる。誰しもが聴いたことがあるであろうあの旋律は、しかし細部まで磨きあげられている。それによって音符は少しだけ新しいベクトルを与えられ、より活気づくのだ。
終楽章のコーダもまた金管楽器の出番。それは3楽章の柔らかく朗らかな木管と対照的で、しなだれ落ちる世界に打つ楔であり、下降するスケールは限界を乗り越えて行く可能性を現わすかのよう。管楽器とティンパニの彩る熱狂は、カール・オルフをも凌ぐ。


交響曲第3番

けれども、当然アーノンクールは金管楽器を一辺倒に吹き倒させているわけではない。この第1楽章では、低弦の一休止に続いて、はじまりを告げるような広がりをもつ、暖色の音を持ってくる。明らかに先の交響曲とは異なる触感。
牧歌的にはじまる2楽章をはさみ、第3楽章アレグレット、ここにきてブラームスはまさにロマン派の巨匠たり得る。アーノンクールはまるで来るべきブルックナーに視線を移しているようだ。
第3番は自分にとって最も難解で近寄りがたい。それは終わるために始まる。終楽章がまさにそうで、そこではコラールもはっきりとした形を持たない。「調和」という声が聴こえる気もする。


交響曲第4番

冒頭の主題に、「モルダウ」を感じた時期があった。ブラームスの影響力は甚大で(シベリウスはベルリンでの留学に嫌気がさしウィーンに向かい、ブラームスに師事を求めたが拒否されたという)、後世名付けられた「民族学派」の作曲家たちは否応なくそれに立ち向かう必要があった。
リヒャルト・シュトラウスは、この作品に感銘を受けた一人だが(初演時にはトライアングルを演奏した!)、概ね当時の楽壇では<退歩>と捉えられた。それはさておき、シャコンヌの先には様々な未来が待っていた。



[image/air_ : 細越一平]

  ニコラウス・アーノンクール、ブラームス交響曲全集、<概ねスタンダード>。
 『マタイ受難曲』、アーノンクール、メンゲルベルク、答えは自らのうちに。
 

ニコラウス・アーノンクール、ブラームス交響曲全集、<概ねスタンダード>。

2009年07月18日 23:39

なんと諸事情で水戸行きを断念。
それで、家でブラームスのシンフォニーを聴くことにした。
演奏はニコラウス・アーノンクール指揮のベルリン・フィルハーモニー。テルデックの全集録音。タワーレコードでほぼ定価で勝ったら、翌月にセールで半額以下に・・・これ以降「BOXCDは絶対定価で買わない」というトラウマを、学生のころの自分に埋め付けてくれたCD。


アーノンクールにしては<概ねスタンダードな演奏>をいう評価を受けたこともあるこの全集録音だが、それはアーノンクールが50年戦い続けた結果とも言うことができるだろう。
そもそも彼のスタイルはもはや奇抜でも恣意的でもない。散々繰り広げられた<奏法の真正論>や<オリジナル楽器の響き>といった論点は、もはや意味を成さない。アーノンクールはディーター・ダーヴィット・ショルツとの対談でも、<歴史的奏法>という概念について「評価ゼロ」と言いきっている。しかしそれは、時代の旗手としてアーノンクールの踏みしめてきた事実の上に成り立った現在の常識、と言っても過言ではないだろう。ショルツも、そのことについて<経験による意識改革が起こった>と述べている。

アーノンクールは、音楽を形作る時最も優先するのは、作品のいきいきした表現であるという。音楽の言語的性格を捉え、アーティキュレーションのひとつひとつに重きを置き、楽譜から比喩的に音楽を立ちあがらせる。
1850年以前の<言語としての音楽>から得た音楽的ヒントは、たとえ歴史や伝統が継続している作品とオーケストラにおいても、有意義な実りをもたらす。それゆえに、アーノンクールがベルリン・フィルと組んだブラームスは、当然のように<概ねスタンダードな演奏>なのであって、しかしそこには様々な驚きと愉悦が潜んでいる。



そういった小難しいことはさておき、ブラームスだ。


僕個人的なベストを挙げると、交響曲第4番の第3楽章。イエスが『フラジャイル』でカバーしたこのスケルツォ的楽想は、アーノンクールの手にかかると非常に躍動的で快活に、それでいてせわしなさはない。どの声部も豊かで、しかし音楽の流れは遮ぎられない。
まるでメンデルスゾーンの序曲のようなこの楽章がクリアでよどみなく進むからこそ、終楽章の暗さ、陰鬱さのドラマツルギーが対照として浮き上がる。
しかし、4番のみならず、ブラームスの遺した4枚のタブローは決して<重厚で濃密なロマン派の典型的な作品>ではないということを、アーノンクールの音楽からは聴きとることができる。


[image/air_ : 細越一平]
 アーノンクールのブラームスに聴く<つながり>の連想。
 『マタイ受難曲』、アーノンクール、メンゲルベルク、答えは自らのうちに。
 

ムターのメンデルスゾーン、声高でないからこそ響く言葉。

2009年07月18日 01:26

いささか食傷気味のメンデルスゾーン・ガラに続いて、アンネ・ゾフィー・ムターとクルト・マズアによる「ヴァイオリンコンチェルト」。

凛として姿勢よく、そしてあくまでも自然な佇まいのムターのメンデルスゾーン。声高でないからこそ、その言葉はよく通る。

クルト・マズアの束ねる、室内楽的なゲヴァントハウス管弦楽団も、さきほどの(演奏はこちらの方が1年も前だが)シャイーのそれと比べてアンサンブルの形もはっきりしており、筆致の豊かさを感じられる演奏。
ゲヴァントハウスというとヴァーツラフ・ノイマンの指揮するマーラーの演奏が個人的には最高で、クルト・マズアにはあまりいい印象はなかったのだが、やはり長年の巨匠でした。

演奏後、ゲヴァントハウスの聴衆がみなスタンディング・オベーションだったことにも頷ける。この音楽なら聴いていて幸せだろうな?。

ということで今日は無言歌を聴きながら眠ろう。

明日は水戸遠征。<高橋悠治の肖像>へ。


[image/air_ : 細越一平]

 日本放送協会にてメンデルスゾーンの生誕200年のガラコンサートを放送中。
 コンサートのススメ:高橋悠治の肖像、稲は音もなくそだつ、水牛が耕すたんぼで。

日本放送協会にてメンデルスゾーンの生誕200年のガラコンサートを放送中。

2009年07月17日 23:19

日本放送協会にてメンデルスゾーンの生誕200年のガラコンサートを放送中。

「スコットランド」の改訂稿とロンドン稿の演奏を流していたが、こんなにも違うのか?と。
メンデルスゾーンという作曲家、僕も大好きな作曲家だが、確かによく知らないところが多い。

アーノンクール大先生の手になる管弦楽曲全集とか出してほしい(しかも廉価で)とか思っているのは僕だけではないはず。。。でもやっぱり「宗教改革」とか大変なんだろうな。そして時代考証的にも、まだまだいろいろな問題が出続けそう。

メンデルスゾーンの作品には、古典派ともロマン派とも言えない難しさがある。
ことにモダンオーケストラによる演奏では、おおむねエッジの利かない、曖昧な音楽になってしまうきらいがあるし、かと言ってガリガリの古楽器では色気がない音楽になってしまう。

かの齋藤秀雄さんが、メンデルスゾーンは美人顔、と仰っていたが、その理性と感性のバランスと、その前提となる知性の造型が、その難しさの所以であろうか。


ところでガラコンサートは、ご多分にもれずもこもことして行き場のない演奏が繰り広げられている。
「トランペット序曲」は、その終りにちょっとびっくりしたが、演奏には方向性を見出せず。弦の旋律も寄る辺なく「ただ奏されていた」。

ゲヴァントハウスは、とても好きなオーケストラのひとつ。それだけに残念。

そして「ピアノコンチェルト」は、顔芸人ラン・ラン・・・メンデルスゾーンがステロイド増強されて下品なビキニを着て下駄を履いた様な演奏。相変わらず素晴らしい芸。

期待してたのに非常に残念な結果。生で会場で聴いてたら確実に暴動起こしそう。


以前、NHK交響楽団で聴いた「エリヤ」を思い出す。サバリッシュの熱演は、とてもメンデルスゾーンに「近しい」音楽だったように思える。それはとても謙虚な、それでいて雄弁な音楽だった。

[image/air_ : 細越一平]

 ムターのメンデルスゾーン、声高でないからこそ響く言葉。



Sutros、クリエイティブ・コモンズ導入の実例、今後の可能性について。

2009年07月17日 00:41


最近始めたもの、Facebook
といっても全くの素人で、マナーも分からず右も左も状態。。。

Creative Commonsのニュースが活発だ。
そのなかから、Sutrosというウェブサイトをご紹介。

Sutros is an easy way for musicians to share their music.

Sutrosは、インターネットを通じて、音楽家が彼らの音楽を広く聴いてもらうために必要なツールを供給しているという。

音楽家は、Sutrosのウェブサイト上に、アップしたいだけ自分の音楽をMP3ファイルとしてアップロードできる。そしてリスナーがその音楽に辿りつきやすいように様々な情報をタグできる。デジタルファイルのストレージや配信の為の費用もかからない。
また、音楽家・アーティストは、そのプロフィール・ページを自由にカスタマイズ出来る。ファンや音楽ジャーナリスト、ミュージシャン仲間などのコミュニティに加わることもできる。音楽家と聴き手のインタラクティヴな交流も図れる。

そして、Sutrosのウェブサイト上の音楽ファイルは全て、クリエイティブ・コモンズによってライセンスされる。それは、著作権を保持しながら、それらの音楽を聴き手とシェアすることを意味する。
つまり、もしアップロードされている楽曲を気に入ったらダウンロードしてもいいし、それをメールすることもできるし、ブログに埋め込むこともできるし(なぜか試したができなかった)、Facebookでシェアすることもできるということだ。ライセンスによっては、そこから派生作品を作ることができるものもある。
もちろんアマゾンから正規のMP3ファイルを購入することもできる。

訪問してみるとわかるが、Sutrosのウェブサイトはとてもシンプルで使いやすい。アップロードされた楽曲も、ジャンルもジャズからロック、エレクトロニカや17世紀のクラシック音楽からアヴァンギャルドなものまで多岐にわたる。基本的にアメリカのアーティストが多いが、ヨーロッパからのものもある。ちなみに現在最も支持されているのはスコットランドのアーティストだ。

Sutrosについて、そのウェブサイトから引用する。

About Sutros
Sutros provides musicians with all the online tools they need to get their music heard. No matter what you play―from classical violin, to blues harmonica, to ehru or electronica―Sutros enables you to market and promote your music to a broad online audience of fans, music journalists, fellow musicians and prospective listeners.
By releasing your music on Sutros under a Creative Commons license, you keep a hold of your rights and initiate a conversation with listeners that will extend across the digital world. You can deliver your music with full, searchable credits for each song and also tell listeners a bit about yourself, the music you play, when they can hear you live and how they can get in touch with you. In turn, the community of listeners who visit Sutros can discover new artists and music, organize songs into playlists, download MP3s and communicate directly with musicians.

There's a whole world of music out there.
We want to hear it.
Share your music under a creative commons license, on Sutros


基本的には自作の楽曲が前提であるだろうが、クラシックのパブリックドメインの作品を演奏し発表する機会として、また現代の作曲家が、その作品を世界に発表する場として非常に活用できるのではないだろうか。少なくともパッケージングされた商品の在庫を抱えるよりよっぽどリスクは低いし、iTunesなどで販売するための費用や権利その他の問題もないだろう。もちろんそれで生計が立てられることは現時点ではほとんど考えられないが、以前に紹介したOn Classicalなども含めて、「これからの可能性」を感じた。


Facebook、だれかやってる方いたら友達になってください・・・奥手なもので・・・お願いします。

[image/air_ : 細越一平]

 ON CLASSICAL、クリエイティブ・コモンズ、JASRAC、日本の著作権事情に思う。
 クリエイティブ・コモンズの概要、CCライセンスに基づき転載。
 実際にクリエイティブ・コモンズのライセンスを作成してみた。
 クリエイティブ・コモンズについて、CCJPのFAQからの引用、意思表示、<クエスチョン>。
 著作権法、<記号論的恐怖>。
 

『老人ホームに音楽が音楽が響く 作曲家になったお年寄り』より、野村誠さんの言葉。

2009年07月16日 01:17


老人ホームに音楽が音楽が響く 作曲家になったお年寄り』より、作曲家野村誠さんの言葉を引用させていただく。


 新しい音楽を生み出したい、音楽の根源を考えたい、と思って、さくら苑にやってきたのだ。お年寄りに音楽を教えるのではない。お年寄りから音楽を教わるのでもない。一緒に新しい音楽を生み出すために来たのだ。(p.39)


 作曲中は、覚えてるフレーズを各自が自由に歌い、新しく思いついたフレーズを自由に提案できた。何でもありの雰囲気があったのだ。一人ひとりが自分の個性で、勝手に言いたいことを言いあえばよかった。ところが、いざ神に書き出して練習するとなると、みんなで一緒に歌わなければならない。それが、窮屈で不自由なのだ。(p.109)


 ぼくは、作曲を完成させることにこだわっていた。よく考えると「完成」という言葉を発していたのは、ぼくだけだった。お年寄りは誰一人、「完成」なんて言葉は口にしなかったのだ。今まで作曲家として作品を完成させる作業を何度もしてきたが、作品を完成させることの意味は、いったい何なのだろう?
 作品を完成させる、ということは、区切りをつける、終わらせるということだ。終わらせるから、新しい作品を始めることができる。では、終わらせるということはどういうことか? さくら苑のお年寄りにとっては、どうなのだろう? 「終わり=死」ということが意識され、はっとした。生きるということは続くということか。
(p.111)


 音楽を通して、勝手の調和について考えていきたいと思う。(p.116)


 (さくら苑での活動の報告シンポジウムにアート関係者の参加が乏しかったことで)福祉関係者が芸術との接点を持つことに関心が高まっていること、芸術関係者の多くが芸術以外の領域との接点を持つこと無関心であることが露呈した出来事だった。(p.143)


 ぼくらの活動はマニュアルも方法論も何もないから、常識もセオリーも何もない。ただ、自然にやっていて、起こったことが事実で、それが僕らの常識になる。しかし、福祉の専門家が見ると、おったまげるようなことがたくさん起こっているらしい。(p.191)



 そもそも、ぼくはこんな無目的の場が好きだ。しかし、そんな無目的な状況が許されることは、非常に少ない。作曲家は、作品を生み出すことを要求される。しかし、さくら苑の完成しない「行為としての作曲」では、何も要求されない。ただ、そこには一緒にいる「場」があり、「時間」があり、そこで起こる「出来事」がある。そうした場や時間や出来事があった証として、何かが曲として残ったりする。生きているとは、こういうことなのかもしれない。作曲とは、こういうことなのかもしれない。(p.216)



繰り返すが、僕は野村さんという作曲家を詳しく知らない。ただ、 『老人ホームに音楽が音楽が響く 作曲家になったお年寄り』という本のみといっても良い。
ただ、ここに綴られている記録と文章は、笑いあり涙あり停滞あり居眠りありの、ユニークで、感動的なものだ。
「もっと知りたい」と、純粋に思う。それは人にしても、その音楽にしても。

音楽のみならず、老人介護環境の現在を知る上でも非常に興味深かった。特に、「老い」と「住み家」、「介護医療」などは、われわれにとって切実な問題である。それについて考えるきっかけを与えてくれた一冊。


[image/air_ : 細越一平]

 『老人ホームに音楽が音楽が響く 作曲家になったお年寄り』、野村誠さんとお年寄りとの共同作曲。
 『老人ホームに音楽が音楽が響く 作曲家になったお年寄り』、舞台は特別養護老人ホーム、さくら苑。

未来のためのQ&Aに早速参加してみた。

2009年07月13日 23:15


早速参加してみた。

未来のためのQ&A

結構な量がある。
これが何万人も参加するとどうなるのか! 

楽しみである。
そして、質問に投票していくにつれ、自分自身にも問いかけられているような感じがする。

質問するのも、それに投票するのも、候補予定者の言を聴くのも、おしなべて<主体的な>作業である。そんなことを再確認した次第。


興味がある方は是非どうぞ。


[image/air_ : 細越一平]

 未来のためのQ&A


未来のためのQ&A

2009年07月13日 22:31


グーグルが、また世界の(日本の)デファクトを変えようとしている。

未来のためのQ&A

衆議院議員をめざしている人が、
本当のところどう思っているのか、
きいてみよう。

「未来のためのQ&A」は、この国に暮らす人と、衆院選に立候補を予定している人との間で、もっと開かれた対話ができるように、との思いで作った仕組みです。決してまだパーフェクトだとは思いませんが、この仕組みが、あなたと政治をもっと近づけ、政治との新しい関係が生まれるきっかけになることを願っています。ぜひ、参加してください。


以下のリンクから、辻野晃一郎社長の一問一答を見ることができる。

 衆院選の立候補予定者が動画で回答 グーグル、質問募集サイトを開設
 NIKKEI NET IT PLUSより。

確かに、先日の都議会選挙を通じて、もっと近くに候補者の声があればいいと思ったのが率直な感想。以前は選挙公報を読み、テレビで政見放送を見ればよかったのかもしれないし、それ以上はインフラや資金を持っている候補に有利、という見方もあるかもしれない(現行の公職選挙法では、その点を憂慮して、公示日以降のウェブサイトの更新を禁じている)。
しかし、現状を鑑みるに、インターネットは逆に低予算で政策信条を有権者に届ける有効なメディアになり得る。先のアメリカ大統領選挙のみならず、海外でも積極的に活用されている事例も多々ある。
そして、率直に、もっと知りたい、と思ったのが、正直な感想である。

私見だが、グーグルモデレーターを使って見せようとしている世界は、政治家と有権者の直接的でインタラクティヴな関係であろうかと思う。
まだカタチになっていないが、image/air_の創り出したい未来も、音楽へのインタラクティヴでインテリジェンスな関わりである。「双方向的で、本当に必要な情報を取捨選択しながら、より直接的でシンプルな繋がり」である。

例えば政治不信の波はこの国から払拭できない流れにも見えるが、政治を志すひとりひとりは、恐らくは純粋に善意に溢れているのではあるまいか。有権者との<直接的な>やり取りは、そんな表情と言質を明らかにし、結果として、<信じられる政治家>を生む可能性がある。セールスフォース・ドットコムとグーグルを活用して誕生したのが、アメリカの、圧倒的に支持率の高い大統領である。

<信じること>は難しく、しかし意外と簡単だ。要は、我々は審議中にワンセグをいじり居眠りをする銭爺などに、一票を投じたくないのだ。自分の一票を活かしてくれる人にこそ、一票を投じたいのだ。
だから、自分の一票に価値があると信じるからこそ、選挙に行かない人が増えているという見方も、もしかしたらできるのかもしれない。
しかし、そんな<高慢たるサボタージュ>などといってはいられない。グーグルはここに一石を投じることができるのだろうか。

辻野社長の一問一答から。

――ネットを使った選挙活動はインフラなどの面で公平性を欠くという指摘もあるが。

我々は場を提供する。グーグルの仕組みに興味を持って、使うかどうかは候補者の判断だ。情報格差を是正するのがインターネットだと信じている。


<場>。


[image/air_ : 細越一平]

日記2。

2009年07月12日 13:37

そして今、投票してきました。
都民で選挙権があって、まだ投票していない方はぜひこれから。

投票で反映させるのは、世代や収入や家族構成の層ではなく、ひとりひとりの願いだと思います。


これからゴーギャン展へ。

日記。

2009年07月12日 13:32


昨日は朝晩楽器を吹き倒してみた。
いや、吹き倒された感じ、でしょうか…

だから今日は唇が腫れてる感じ。
そしてスターリングシルバーのソプラノサックスは、重い…
おかげで手が筋肉痛です。


目下秋口に一度トライアウトを行えるように準備中!そ

おおお

『老人ホームに音楽が音楽が響く 作曲家になったお年寄り』、舞台は特別養護老人ホーム、さくら苑。

2009年07月11日 00:47


『老人ホームに音楽が音楽が響く 作曲家になったお年寄り』の続き。

『老人ホームに音楽が音楽が響く 作曲家になったお年寄り』(野村誠・大沢久子、晶文社、2006年)は、特別養護老人ホームでの活動のドキュメンタリーである。もちろんそこでは<死>という題材も描かれる。「たまごをもって家出する」の最後に辿りつく5歳のころを語る小澤さん、幼少期の話をみんなで歌にした内藤さん、いつもみんなを元気づけ、時には興に乗って<鐘の奇跡>を起こす沼田さん。その<死>という出来事も、淡々と綴られている。陽気に朗らかに進む物語の、しかし舞台は特別養護老人ホームなのだ。

特別養護老人ホームとは、24時間介護が必要な人たちの住む場所である。お年寄りのほとんどは入居するときは寝たきりで、リハビリをしつつ生活をしていくうちに、少しずつ回復していくのだという。しかし入居者のほとんどは、自宅に戻ることができずにホームで人生を終える。

野村さんの活動に、それのほとんどに実際に参加してきたノンフィクション・ライターの大沢久子さんの文章が挟まれることによって、この本はより意味の厚みを増している(いささか野村さん寄りではある)。どうやら野村さんと、当地さくら苑のこの取り組みは、福祉・介護の定説を覆すような試みであるらしい。一般に音楽療法では昔話や民謡を歌うことが一般的だが、そんな中、お年寄りの現在を歌う野村さんたちの活動は驚きであったという。


他にも「ワイワイ音頭」*は、音楽療法士に衝撃を与えたようだった。音楽療法のセオリーや常識には反しているらしい。音楽療法の講習会で、お年寄りと戦争や恋愛の話などは、避けるように教えられた話を聞いて、目から鱗だったと報告してくれた音楽療法士がいた。戦争や恋愛の話をすると、心の傷に触れることが多いから、避けるように指導された、とのことだった。それはそれで一つの考え方だと思う。しかし、僕の創作活動では、人間の「楽しみ」だけでなく、「悲しみ」も「喜び」も「苦しみ」も、全て音楽の題材になり得るし、避けて通る必要なんてない。避けなければいけない、と言われる恋の話だって、さくら苑独自のラブソングになってしまう。

  *「ワイワイ音頭」とは、野村さんとお年寄りとで作り続けている作品のタイトル。

そして、この共同作業を許容するさくら苑と苑長の桜井里二さんのスタンスも、非常にユニークなものであるという(虐待事件を起こしたさくら苑ではない)。大沢さんは他の施設の事例などを交えながら、その独特な在り方を評価している。ここではそこには踏み込まないので、興味のある方は是非ご一読を。

続く。


[image/air_ : 細越一平]

 『老人ホームに音楽が音楽が響く 作曲家になったお年寄り』

『老人ホームに音楽が音楽が響く 作曲家になったお年寄り』、野村誠さんとお年寄りとの共同作曲。

2009年07月10日 00:52

以前にこのブログで、『体重減らそう』という作品を紹介させて頂いた(というか、それしか見つからなかった)、作曲家野村誠さん。

『体重減らそう ホエールトーンオペラより』、野村誠さんをしる。

僕は作曲家野村誠さんについて、自身のウェブサイトと、ユニークなブログ以上のことは知らない。とてもユニークなスタンスで活動してらっしゃる方のようだ。

僕が野村さんを知ったのは、一冊の本。
老人ホームに音楽が音楽が響く 作曲家になったお年寄り』という本である。
(野村誠・大沢久子、晶文社、2006年)

この本では、横浜にある特別養護老人ホーム「さくら苑」を舞台にして、作曲家野村誠さんと、入居しているお年寄りによる、<共同作曲>の様子が綴られている。それは全体的にゆる?く、それでいてあったかく、時に停滞し時に笑いと議論と居眠りを挟みながら、ゆっくりと<勝手に>生まれ続けていく音楽のドキュメンタリーである。
音楽関係からしてもかなり異色な毛並みだが、介護・福祉関係からは様々な驚きと反響があったという(逆に音楽・アート関係者が、専門領域以外に示す関心の低さも記されている)。

「音楽の根源を見直すため」、様々な活動をしてきた野村さん。子どものイタズラやでたらめの自由奔放さを追及するために、「共同作曲」という概念を提唱し実践してきた延長で、こう思ったらしい。


明治や大正に生まれたお年寄りたちの音楽的な感性は、ぼくとは大きく異なるのではないか? 一人ひとりに長い人生経験があるのだから、それぞれのお年寄りは個性に溢れ、潜在的に優れた発想力を持っているのではないか? そんなお年寄りたちの感性をつむいで作曲をすれば、驚くべき音楽が作れるのではないか!
これが、老人ホームで共同作曲を始めた動機。



しかし第1回目。10人ほどのお年寄りが参加するなかで始まった共同作曲は、まったくかみ合わない。自己紹介すら始められない。話しかけるひと、太鼓を叩くひと、元気の出る歌を歌いはじめるひと、うたたねするひと。「とにかく一つの話題が持続しない。全体の核が存在しない。こんな風にゆらゆらと時が過ぎていく」。
しかしここで、ひとつの流れや勝手に持っていかないところが、野村さんの才の為すところである。ウッドブロックの叩き方を聞かれ「楽器はどうやって演奏してもいいと思います」と応え、お年寄りの為すがままにして行く。ドンチャカにぎやかにリズムを鳴らしていたお年寄りたち。
そのなかで、誰かがハンドベルを響かせる。それを聴いた人たちが、ひとりまたひとりと楽器をハンドベルに持ち替え、りりりーんという偶然の響きを創り出していく。

メロディーもない、リズムパターンもない。ただただ響きだけがそこにあった。

あれだけバラバラに話していた人たちが、バラバラに演奏した結果できた調和、それは本当に美しかった。

こうして記念すべき<第1回目の>共同作曲は終わる。その時は誰も、この共同作曲が6年以上も続いていくとは思ってもいなかった。

♪♪♪ ♪♪♪
今年に入って、老人ホームについて調べていた時期があり、その時にこの本と出会って、したたかに衝撃を受けました。続く。

ちなみに野村誠さんのウェブサイトはこちら
 →野村誠のページ

本の表紙はこんなファンシーな感じ。


[image/air_ : 細越一平]

  『体重減らそう ホエールトーンオペラより』、野村誠さんをしる。
 

We are the World.

2009年07月09日 00:27


今夜はこの曲を。



逝ってしまった人にしか、伝えられない言葉があると、僕は思っています。

清志郎さんが亡くなった時もそうだけれど、歌に、音楽に、これほどの希望や夢や想いが詰まっている、そんなことを感じさせてくれる、そんな音楽がある。

合掌。

それにしても、錚々たるメンツのなかで、さりげなくダン・エイクロイドが・・・個人的に大興奮。
この7分、改めて観ると、最後、フェードアウトせずに延々と続いてほしい、そんな気持ちにさせられるのは、僕だけではないはず。


[image/air_ : 細越一平]

 忌野清志郎さん死去。

東京都議選。

2009年07月08日 22:53

閑話休題。

7月12日は東京都議会議員選挙。
連日色んなところでタスキを掛けた候補者が演説をしたりビラを配ったり、握手をしようとしたり。いうなればこの一時のパフォーマンスを繰り広げている。僕はといえば、仕事とともに余りに激しく引っ越しを繰り返したせいで、実は今回初めての投票である(実家を出てから17回引っ越した)。

日本人は伝えることが下手だとよく言われるが、選挙などその典型だろう。
僕は個人的に「若さ」や「知名度」よりも「実績」や「秀でた能力」などの方が選ぶ基準であると考えるのだが、日本の選挙は、片方は「現状への不満→変化を予感できるような若さや勢いをアピール」、他方は「現状への不安→組織票固め」という様相で、簡単には「実行したい政策」であったり「実行してきた成果」であったりが見えてこない。
言葉のせいだろうか? Yes, we can.なんて気の利いた文言は、面映ゆい日本語には難しいか。

若年層の選挙離れが進んでいるという。確かにそうだ。
しかし、日本の教育は(少なくとも僕が受けた教育は)、選挙の仕組みは教えても、選挙に行く価値観は教えない。候補者も、CMも、歯に衣着せたような言い方しかしない。


とにかく投票に行ってください。もし私の演説を聞いて、少しでも投票に行きたいと思っていただけたなら、必ず投票所に行き、投票用紙に記入してください。そこに書く名前は、私の名前でも、他の候補者の名前でも結構です。どうせ自分の一票では何も変わらないと思っている方は、どうぞ思い直してください。世界は、あなたの一票でしか変わらないということを。


こんな演説をされたら、間違いなく投票に行きますね、僕は。

そんな訳で、みんなで投票に行こう。

東京都議会議員選挙


[image/air_ : 細越一平]


『リヒテルは語る 人とピアノ、芸術と夢』。

2009年07月07日 07:30

スヴァトスラフ・リヒテル。
1915年ウクライナに生まれ、1997年にモスクワで没した。20世紀を代表するピアニスト。
それ以上はここで紹介する必要はありますまい。

リヒテルの弾くグリーグの『抒情小曲集』を聴く。
「アリエッタ」は詩情に溢れ、シューマンの森に誘うような音楽。その先の暗がりへの惧れや不安に一瞬躊躇するも、ひとたび足を踏み入れればそこは安息の場所。

『リヒテルは語る 人とピアノ、芸術と夢』(ユーリー・ボリソフ著、宮澤淳一訳、音楽之友社、2003年)を読む。

音楽家をテクストとして読み込むことには、実は幾ばくかの抵抗がある。しかしテクストがその音楽に更なる空想の響きを付け加えるのは事実だ。

リヒテルの語る言葉は美しい。狂気と紙一重の意識の流れに導かれながら、彼のインスピレーションの源流へと辿っているような感覚がある。知と創造の人であったと改めて感じる。
それとともに、個人的にリヒテルの印象は「幻のピアニスト」であったり「孤高の人」というイメージがあったのだが、非常に広い同時代人との交流や関心があったということに驚く(マリーネ・ディートリヒとか)。<12月の夕べ>という彼が主催した音楽祭では、演出や衣装デザインも行いながら、絵画と音楽をと組み合わせることを行っている。小説、映画、絵画、建築、神話、それら全ての要素がリヒテルのなかで音楽と密接に結びついている。

はじめ読みづらかった文章も、次第にすらすらと入ってくるようになる。安らかに刺激的な一冊。


[image/air_ : 細越一平]

  夢が形をとる、『リヒテルは語る 人とピアノ、芸術と夢』。

パスカル・デュサパン -Trio Rombach for clarinet, cello and piano

2009年07月07日 00:30

紹介が遅くなってしまいましたが、ヨーロッパで活躍されているピアニスト、大宅裕さんの演奏を、インターネットラジオにて聴くことができます。こちらのウェブサイトからどうぞ!

デュサパン 6月21日 Orgelpark Trio Rombach ライブ録音 インターネットラジオにて放送中
 ―Oya Piano Duo Official Blog

Pascal Dusapin (1955-)
Trio Rombach (1997) clarinet, cello and piano
 clarinet Jaan Bossier
 cello Oren Shevlin
 piano 大宅裕

The Trio Rombach (1997) for clarinet, cello and piano was written by Dusapin and commissioned by Musique Nouvelle en Liberté and the Ravel Academy in Saint-Jean de Luz on the occasion of the 30th anniversary of the Ravel Academy. The first version of the piece was entitled simply Trio and was composed for violin, cello and piano; after clarinettist Armand Angster later arranged the violin part for clarinet, the piece was then retitled "Trio Rombach", from the name of the town where this adaptation had been made during the summers of 1997 / 1998.


大宅裕さんの作品に対してのコメントはこちらから読めます。

6月のコンサートすべて終了!


先月の終わりから今月の初めにかけては、リチャード・バレット作曲 NACHT UND TRAUME のレコーディング・セッションもあったとのこと。
ピアノ・チェロ・ライブエレクトロニクスのこの作品、新聞などでも<21世紀の新しいチェロ・ソナタ>と評価の高い作品です。様々な語法、圧倒的な情報量、未だ聴いたことがないようでいながら感じられる既視感、それらは、まだ音楽も<全く終わっていない>ということを感じさせてくれる作品です。


[image/air_ : 細越一平]

 Morton Feldman: Patterns In A Chromatic Field: Arne Deforce(Vc)大宅裕(P)
 <新しい耳>テッセラの春音楽祭閉幕。
 <新しい耳> テッセラの春音楽祭続報? 第1夜 <原田敬子の耳?直感力?>
 

会田誠さんでこんなの見つけた。

2009年07月06日 01:09


会田誠さんで検索していたら、こんなの見つけた。

憧れのあの人は、どうやってあの仕事に就いたの?
 第2回 会田誠さん

アートスクールガイドというウェブサイトですが、閉鎖されてしまっているらしい。芸術を志している高校生向け? まあ僕は門外漢なので詳細はわかりません。そういうスタンスは得意です。

高校生向け、といっても、とても希望が湧かず悲惨な感じで、それでも非常にポジティヴな印象を受けるのは、やはりまだ生き残って、逆に人生を勝ち取っているからでしょうか? 
『ぴあ』で「貧乏系」で紹介されたり、学生時代のエピソード、アルバイトと消費者金融に明け暮れる日々・・・

最近のインタビューで「現代美術家が天職だった気がする」と言ったんですが、それまではそんなふうに言ったことはなかったんです。40にして惑わずといいますが、最近やっと40にして、肩書的には現代美術家ってことでいいかと、そういう心境になってきました。


それでもこの言葉に、このうえない勇気と希望をもらうのは、これを読む高校生だけではないはず。


[image/air_ : 細越一平]

 neoteny japan(ネオテニー・ジャパン 高橋コレクション)、伊藤存さんの水ドローイング。

neoteny japan(ネオテニー・ジャパン 高橋コレクション)、伊藤存さんの水ドローイング。

2009年07月06日 00:00


上野の森美術館に行ってきた。 
 neoteny japan : contemporary artists after 1990's from Takahashi collection

著名な精神科医であり、屈指の現代美術のコレクターでもある高橋龍太郎氏のコレクションから、個人所蔵故に俯瞰できる世界を展示する巡回展。

7月15日までということもあるのだろうか、会場の熱気、観る側の数も多ければ、作品にがっぷり四つというか、その姿勢もまた凄い。今はカタログを見直しながら、ポッドキャストを聴きながら、この文章を打っている。頭の奥がしびれている感覚があり、帰ってきてから少し眠った。脳味噌の情報系を整理する必要があるのかもしれなかったが、もしかしたら帰りがけに蕎麦屋で飲んだビールのせいかもしれない。

neoteny ネオテニー」とは「幼形成熟」という意味である。内容は後日にするとして、今日は特別に行われた伊藤存氏の水を使ったドローイング(上野の森美術館前広場)の様子をどうぞ。

0907051
天候は絶好の曇り空。晴れてたらドローイングは一瞬の命だったはず。

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たくさんの人の取り巻きのなかで黙々と進む。

0907053
観る側も独特のテンション。

0907054
ドローイング終了。一部。

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こちらも部分。消えてしまったものも含め独特の儚さ。伊藤氏の刺繍の線にも通じるような感覚も。

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「おわりました」。おつかれさまでした。


会場を回りながら、この熱気と、音楽シーンとの温度差や強烈な差異やエネルギーのようなものを感じる。それがないと言うことは幸か不幸か、これから興すことができるということだ。


たくさんの著名人もこの会を訪れているということだが、先月30日には舛添要一厚生労働相もいらっしゃったとのこと。お忙しいらしく30分くらいの観覧。そもそもそれって来る意味あるのか。そういう無駄な政治のパフォーマンスにはウンザリということに、早く気づいたほうがいい。でなければずっとカイワレダイコンみんなで食べ続けてろって。いつの間にか完全に体制に組み込まれた舛添さんも。


「観た人がどう思うかとか、それ見て何考えるかが重要だ」とは加藤泉氏のポッドキャストから。
是非自身の目で確かめられることをお勧めします。もう一度だけ、会期は15日までですよ! 


[image/air_ : 細越一平]

 予定変更。neoteny japanに行きます。

予定変更。neoteny japanに行きます。

2009年07月05日 01:14


日曜はゴーギャン!と楽しみにしていたが、会期が迫っていると言うこともあり、予定変更今日は上野の森美術館に行こうと思う。

 neoteny japan ?高橋コレクションより

個人的には、伊藤存、名和晃平、束芋、そして加藤美佳各氏の作品との再会が楽しみ。

○ちなみに今日は伊藤存氏の水によるドローイングといったイベントもあるらしい。
ネオテニージャパン公式ブログ

○さらには、今回の展示会のために、作家自身が自作についてコメントしているポッドキャストも無償ダウンロード出来る。
→案内ページはこちら
ipodに入れていけば、当日の音声ガイドにもなる訳です。

様々な工夫、取り組み、もちろん手探りかもしれないけれども、動いているところは動いているし、それは勿論現状への問題意識や危機感を感じているからこその行動だ。
比較的アート(音楽以外)ではこのような取り組みは盛んであるようにも思う。ではクラシックの現状は・・・?
やはり既得権益が強ければ強いほど、動きは鈍いのか? 
恐竜の時代は終わっているのに?


[image/air_ : 細越一平]

 東京都現代美術館、池田亮司展 +/?[the infinite between 0 and 1]
 



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