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グレン・グールド『パルティータ変ロ長調BWV825』、その演奏の作法とエスキス、ギフト。

2010年02月27日 03:16

さっきのエントリだとほんとに救いがなくなるのでこちらを再掲。
久しぶりにグールドを取り出すと、やはり聴きたくなるのはこの『パルティータ』だ。


先日、グレン・グールドによる『平均律クラヴィーア』について少し触れたので、それならば『パルティータ』についても少々。



BWV825は、グールドのキャリアの中でも最高なもののひとつだろう。
この猫背のピアニストは、当時の録音技術の向上(とその追求)は、 「明晰性、即時性、そしてまさに触れんばかりの近接感のあるサウンド」を聴き手が求めるようになったからであると述べている(それは2世代前なら考えられなかったと付け加えて)。

グールドはその演奏に対してと同様に、楽器と録音に関しても偏執的なまでのこだわりを持っていた。
グールドの遺した録音が、当時の水平軸では異質なサウンドであるのは、当時の常識を覆すような近距離に置かれたマイクにあったと言われている。グールドの<実験工房>と化していたスタジオからは、グールドの言うところの<近接感>を聴くことができる。

矢野顕子が言うところの、「時間も空間も無きもののごとく、彼はピアノを弾きに来るのだから。/たとえそれが私達のためでなくとも。」という言葉は、グールドの音楽を得てして言い当てている。


パルティータ変ロ長調』の録音(あえて<演奏>ではなく)は、グールドの特色をそのまま切り取ったような感覚がある。
まるで<ピアニスティック>でないピアノの音色とアクション。ピアノが失ったものは艶のある音色やサスティン・ペダルを用いた幅広いフレージング、ダイナミクスレンジ等々。ジーグで弾かれる高音部など、甲高く咳き込んだセキレイのようだ。

それでは<ピアニスティック>なるものを削ぎ取ったあとに聴こえてくるものは? 

グールドは、ピアノピアノであるためのアイデンティティを奪い去る。
流麗なヴィルトゥオロジーなど微塵もなく、弧線の代わりに、点描の景色が広がる。グールドの好んだ<乾いた(セッコ)>な音の連なりは、従属ではなく連続としての音楽の時間を奏でる。音に階級などなく、全ての音に存在する意味がある、その文脈でグールドは真に平等主義者のエヴァンゲリストだ。
パタパタとも揶揄される恐ろしく正確な指先のアクションに反応するためには、ピアノの打鍵システムそのものに手を加える必要があった。音の厚みを犠牲にしても、グールドの指先の運動の紡ぐ思想に、ピアノは答える必要があった。

特に録音を始めた初期の演奏では概ね早め(もしくは高速)のテンポが設定されている。それは、メロディック・ルバートや仰々しいフォルテとピアノ、感傷的に<聴かせる>ピアニズム(非常に語弊に富んだ言葉だが、未だに散見することができる)といった奏者によるヴィルトゥオロジーを粉砕した。グールドは実際のところ、音楽から演奏者の名前すら掻き消そうとしていたのだろう。

作品から楽器の特性を消し、時代観念に彩られた演奏の慣習を消し、演奏する者の存在を消す。
グールドの演奏は<個性的>と称されることが多いが、グールドは個性を表出することなど微塵も望んでいなかった。グールドが創りたかったのは、音楽が音楽になりえる瞬間、すなわち音楽が創造される瞬間の記録である。演奏という行為が作曲と創作という行為に<貼りついている>。グールドの音楽のエスキスはそこにある。


BWV825に戻ろう。
メヌエットで聴こえる音楽は、まさに音楽が生まれている瞬間。
希望に満ちた静謐さが、敬虔さにも変わりえるような瞬間。
終わりの部分など、ふと、バッハがこの曲を始めて弾いたときの、微笑みにみちた半ば即興のような繰り返しにも聴こえないだろうか。

そして、パルティータの始まり、その長三和音は、まるでこの世のものではないような純粋さと美しさに満ちていながら、限りなくゼロに近い。まるで透明に響くその音色は、あまねき者に届くギフトのように。


[image/air_ : 細越一平]

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 ピアノ・ディスタンス グレン・グールドの音楽1 
 創造の過程に グレン・グールドの音楽17
 

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オリンピック・国母選手・フィギュアスケート・限界に達しつつある日本のメンタリティ

2010年02月27日 03:00

このエントリにはあまり救いがない。結論もない。読んで不愉快に思われる人もいるだろう。
ただ、最近思ったことをつらつらと書いている。それはこの国に感じる違和感であり、焦りであり、苛立ちのようなものだ。


定点観測、オリンピックと。

オリンピックで時の人となった国母選手。
一般報道やテレビの論調と、ネット上での反応の乖離に目が行く。

確かに決して見た目の良い格好ではなかったが、そもそもまずあの格好のまま空港に降ろしてしまった協会スタッフに非があろうことは明らかである(もちろん前提として協会スタッフにもそのようなTPOをわきまえる良識があったなら)。そのリスクヘッジの欠如は、ソリ競技では2人の失格者を出した。「選手任せになっていた」とは橋本聖子団長の弁。

20代で海外を転戦しながらオリンピックに出場した若者に「国に戻せ」とテレビで言い放ったのは中年で茶髪に不精ヒゲの4コママンガ家だ。あのようなデーマゴーグのアジ馬鹿が受けるのもテレビという特性だ(僕は決して受けていると思いたくない)。
日本人は今、寛容さを亡くし、スケープゴートを社会の何処かにこしらえて徹底的に潰しにかかる、そんな国民性を有しているのだ。「教育」や「指導」という言葉は形骸化し、歪曲した「責任」のもとに人が裁かれている。

スポーツの特性上仕方が無いことではあろうが、マスコミは連日メダルの数を煽る。しかしオリンピックが国威向上の場ではなくなったのは既に明らかである。逆に国威高揚を掲げる国は一様に強化費を宛て、当然メダルを獲得する(例外はコマーシャリズムの帝国アメリカだ)。
国民に一定の支持を受けた先の事業仕分けでは、蓮舫議員は「一番でなければ駄目なんですか?」と質した。どうやらマスコミの論調を見る限りでは「一番でないと駄目」なのだろう。4年に一度だけ注目をされ、突然結果を求められる選手に、異様な悲壮感を見るのは僕だけではあるまい。日の丸を「背負わされた」(決して「背負った」ではない)オリンピック。まるで分裂症だ。



フィギュアではジャッジの採点基準に疑問の声も見られるが、要はルールに即した評価が高かった選手が金メダルを獲得したということ。「4回転を飛ばないのに金メダル?」とか「トリプルアクセルを飛んだのに銀?」と言っている人は、そもそも論点が違う。それがルールでありゲームなのだから。

この論調からは、昨今の日本の電機メーカの置かれている状況が重なって見える。
「世界の工場」と謳われた日本の電機メーカは、今やそのシェアを韓国や台湾・中国のメーカに奪われた。「高品質」とドメスティックさを基調とした「メイド・イン・ジャパン」は、「廉価」で世界戦略を持つ「メイド・イン・アジア」に飲み込まれた。
世界が求めているものを見据え、そのニーズに見合った戦略を構築し勃興するアジアの企業と、突出した「技術力」を持ちながらも凋落した日本企業と。

しかし、いくら現実を突きつけられようとも、今の日本人にはそれを受け入れられるメンタリティが備わっていない。昨日の勝者が今日も同じ場所に立てていないことを、信じたくないのだ。信じてしまったら最早立ち上がることはできない??実は今この国は、それほどまでに追い詰められているようにも感じるのである。


[image/air_ : 細越一平]


今考えていること、<公共性>、音楽は誰のものでもない。

2010年02月23日 21:01

今僕は(僕たちは)、ひとつのサービスを提供する準備をはじめている。
詳しくはまだ触れられないが(そしてまだカタチになっていないものに対して確かに言えることは何もない)、それはwebを前提としたサービスとなる。


今や光ファイバーやフレッツ網といった高速インターネット接続の限界費用は限りなくゼロに近づいている。
それはつまり、水道や電気と同様に、インターネット回線はほぼ社会インフラとなったと言うことだ。


インフラと<公共性>というキーワードは切り離せない。

そういった意味では電波を介するマスメディアも、当然の帰結として公共性を極めて有するものであるが、その代表たるTVや新聞が、どれだけその責務を果たしているだろう。
少なくとも僕は、「良識のある人は、今やTVも新聞も真実を伝えていないことに気づいている」とは思っている一人だ。これは私感であり、統計的なものではない。しかし、娯楽から報道にいたるまで全てが資本と権力と政治の既得権益にこびりついている今の<マスメディア>に、公共性を求めるべくもないことは自明である。


今僕が考えているプロジェクトは、極めて<公共性>の強いものとなる。
もちろん運営に関しての費用はその中から生み出す必要があるし、ボランティアではない。

しかし、音楽の、それを取り巻く環境を少しずつでも変えていく、そのような仕掛けは、何者かに依存してはならない。

それはすなわち、音楽が誰のものでもないのと同じようなものだ。


[image/air_ : 細越一平]

孫社長のお手本のような動きとGoogleBuzz (定点観測100211)

2010年02月11日 13:41

定点観測。

◯ソフトバンクの孫社長が果てしない

先日Ustreamのスタジオ設置を即決したばかりの孫社長、今度はホワイトプランの障害者割引を発表。
障害者用のプランとしては、NTTdocomo、KDDIに遅れを取っていたソフトバンクだったが、要望のTweetに孫社長が即座に対応、ほぼ即日でプレスリリース。
 →http://www.softbankmobile.co.jp/ja/news/press/2010/20100209_02/index.html

孫社長が、ソフトバンク社員全員にTwitterを開始するように号令を出した時には、正直これほどやるとは誰も想像がつかなかったのではないだろうか。

アメリカの大手家電小売のベストバイ Best Buyは、Twitter上で寄せられた商品などに関して寄せられた質問に対して、店員全員(総勢2500名以上)で手隙時間によってたかってTweetして返答するというサービスを展開して一躍有名になったが、ソフトバンク、というよりは孫社長の今回の一連の動きは、これからの経営者のあり方を示す上でもマイルストーンになっていくのではないだろうか。


◯Google、新サービス「Google Buzz」発表

またしてもGoogleの新サービス。Gmailのソーシャルネットワーク化を強固にしようとするサービスのようだ。
個人的には閉鎖的なfriendfeedのような印象。つまり、fliclrやらGoogleリーダーやらTwitterでのアクションが「使い慣れた」Gmailのプラットフォーム上で集約され、それを友人と共有できる、ということ。

そもそもそれならFacebookやfriendfeedで十分じゃないか。
もちろん、これまでそういったソーシャルネットワーク・サービスを利用しているユーザーはそうだろう。僕もその一人だ。特にB
uzzは必要ない。加えて他のサービスに比べて、Gmailで展開されるので、外部に対しての拡がりもない。そこに特に魅力を感じない。

けれども、重要視しておきたいのが、今回Gmailのアカウントを持つユーザー全てにBuzzのサービスが提供されるということだ。この点は今後パンチを効かせてくるかもしれない。

つまり、これまで特にソーシャルネットワークの各種サービスは必要ないと思っていたユーザーにまで、おしなべてそのサービスを与えてしまうということだ。昨年よくTwitter上で見られた「キャズム」という言葉を借りるならば、GoogleBuzzのサービスがリリースされる前と後で、ソーシャルネットワークのキャズムは一気に超えられてしまうのかもしれない。もちろんそうならないかもしれない。それは分からない。ただ、Buzzは設定も簡単で、知り合いがいればほぼ自動的にフォローが始まる。拡がりは早いだろう。もちろんそれが稼働するかは別問題としても。

「Googleはあなたよりもあなたのことを知っている」とはよく言われる。しかし、検索や履歴、そしてメールやドキュメント、カレンダーなどの各種サービスはこれまで「個人」情報だった。現在ソーシャルネットワークが普及してきた中で、Googleが次に狙いを定めてきたのが「個人の行動」と「個々の繋がり」である、と考える事は容易いようにも思える。

ちなみに僕のfriendfeedは
http://friendfeed.com/chikaplogic です。変更(やむなく)しました。
Facebookは変わらず
http://www.facebook.com/profile.php?ref=profile&id=100000016252152 です。

御気軽にお立ち寄りを?。
Feedは基本的に多めです。

[image/air_ : 細越一平] 




定点観測100208。

2010年02月08日 22:38

この週末は所属する吹奏楽団の練習でバルトークに心を折られそれが元でという訳ではないのだが痛飲を重ね麻布の銭湯で江戸っ子爺さんにお湯をかけられコチシュの弾く『舞踏組曲』のポエジーに打ちのめされほぐされ、それでも何やかやで過ぎていった。

定点観測。

◯キリンとサントリー、経営統合を断念。

「オーナー会社の良さを(上場している)パブリックカンパニーは理解できない。逆もまた真かもしれない」
(サントリーホールディングス・佐治信忠社長)
社長会見でのこのコメントは衝撃的だが、経済的側面はさておき、長きにわたって文化・芸術・スポーツに貢献してきた両社である。個人的には統合によってさらに「合理的・経営的判断」がくだされるのではないかと危惧していた。もちろん天保山のサントリー美術館の閉館と六本木の文化財団への一元化など、既にその方向に進んでいるのも事実ではあろうが、是非もうひと踏ん張り、独自性を保ちながら、その社風を維持していって頂きたい。


◯トヨタ、プリウスのリコール問題とCMの無期限自粛

ブレーキの「不具合」を「違和感」と言い、顧客の「クレーム」を「ご意見」と言う。今回の「現象」はトヨタに何をもたらすのか。まるで前時代のボーイング社のような体質を感じるのは僕だけだろうか。
そしてCMの無期限自粛によって、電通の被る損害は1800億円になるという。といっても、必ずどこかでその損金は回収されるのだ。煽りを食うのは結局末端の消費者や生産者だということを忘れてはいけない。決してトヨタも電通も損害らしい損害を被らず。巧妙にすりぬけていくだろう。


◯宮沢賢治の猫(など)の絵

宮澤賢治作。衝撃の猫画像。ちくま学芸文庫の編集長が見つけてきてくれました。(み)http://bit.ly/buqqAa #nekohondana
 @chikumashobo
 http://twitter.com/chikumashobo/status/8803159473

静かな、それでいてとても哀しくさざめく絵だと、僕は感じた。


◯フォローやフォロワーとかについて

どうやら#followmejpとかいうタグがあるらしい。そこで、「あと◯人でフォロワー500人!」と呟いている人を観た。おそらくそのハッシュタグを覗いたわけではないが、そのタグ内には同じようなTweetが溢れているのだろう。
Twitterの楽しみ方は人それぞれだが、mixi的なソーシャルメディアの使い方とTwitterは相容れない様に感じる。また、自分にコンテンツがないのにフォロワーばかりを増やそうとするのには、あまりセンスを感じない。
それにしてもmixiなどを見ていると、日本人特有のムラ意識が顕著で、個人的に全く好きになれない。むしろ苦手。フォロー返しやら足跡がどうしたやら、世間体を気にしながら囲い込みと執着と達観を混ぜたような不思議な居心地の悪さをmixiに感じるのは僕だけではあるまい。


最近の関心は、<コミュニティ>と<ソサエティ>。
クラシックのコンサートが、いかにして新しい(それでいて昔ながらの)<ソサエティ>の場を生み出すか。
大ホールの単なる<興行>ではなく、地に足をつけ、根を張るコンサートが必要な時代が来ているはずだ。


[image/air_ : 細越一平]

定点観測100203。

2010年02月04日 21:57

Twitterでは今日もTLが凄い勢いで流れている。

僕はその「流れている」感覚が好きで、今はことさらに流れを辿って読み返すことは多くはない。
雑踏の中を歩いて誰かに出会う、そんな感覚。
貴重なTweetも無駄なTweetもなく、全てただのTweetが流れていく。それに価値を与えるのは読み手である。
売上2兆円規模の社長も、世界的な音楽家も、喧嘩っ早い経済評論家も、未だにTwitterを票に結びつけようと躍起になっている政治家も、「結局キレイが勝ち」な人も、オタクもニートも学生も主婦もプロもアマチュアも、皆が平等な土俵の上に立っている。
はじめた当初は全部読みたいと思っていたが、すぐに諦めた。これは本質的ではないと思ったからだ。そして諦めが新しい世界を見せてくれることもあると知った。諦めると、逆に出会いが尊くなるから不思議だ。



誰かに強いられてつぶやくわけではないように、今日から気ままに、Twitterなどで散見したその日の出来事を残して行こうと思う。もしかしたらいつの日か、それを見返して気づくことがあるかもしれない。ある時代のクロニクルのようなものができるかもしれない。できないかもしれない。意味が無いと思ったら辞めれば良い。進むも止めるも自由なのもウェブならではだ。




◯トヨタの北米でのリコールについて

日本では「誠意をもって対応すればよい」という風潮があるが、今回はアメリカが舞台。同じようには行かない。大政奉還をしたはずが、謝罪会見に豊田社長は出てこなかった。この一手が大きな分岐点になるかもしれない。

◯Ustreamと孫社長
 
孫社長がTwitterをはじめたとき、これほどすごいことになるとは思わなかった。これまでの会社の意思決定とはおよそ異なったプロセス(というより一発返答)で物事が進むスピード。
 →「ソフトバンクの孫さんが、超スピードでUstreamスタジオ設立を決定していくまとめ」
「電波悪い」というTweetに反応して、自ら陣頭指揮をとって3000億円突っ込むと言い切るその姿勢。
半端じゃない。

◯石川代議士と週刊朝日だかの編集長
 
小沢問題で起訴された石川代議士が未だ釈放されない理由などが全く報道されていない件。一方で週刊朝日の編集長が出頭要請を受けたということでギャーギャー言っている件。

それに対してホリエモンのTweet。
 人を独房に長期間閉じ込め、事前リークで社会の晒し者にして社会的に抹殺するくせに自分が実名報道されて怒るとかありえねーって思う。
 http://twitter.com/takapon_jp/status/8581786799

◯渦中の青木真也、Twitter始める。

人間白帯青木真也、腕折り指立て青木真也、昨日よりTwitterを始める(@waoki)。フォロワー既に580人。3月のDREAM、でないかなあ。


[image/air_ : 細越一平]





困難な時代と。

2010年02月04日 20:54

僕たちはいつからか、凄まじい情報量の只中にさらされる世界に住んでいた。

2年前、僕は京都で居酒屋をやっていた。
朝9時過ぎから仕込みをし、ランチを捌き、ご飯をかっくらってはまた夜の仕込み、夜の営業をしてお客様を見送ったあと掃除をして店を出るのが5時とか当たり前。もちろん充実していたし、生きている喜びもたくさん感じたけれど。

それから半年して職を辞し、暗中模索の1年を過ごし、やっと次に向かうべき世界が見えてきたのが今。
時間がかかったし、これから進むべき方向がうまく行くかもわからないけれど、後悔はしていない。


話がいきなり逸れた。
2年前と今と、比べ物にならないほど情報量が多く、処理・整理するので時間だけが過ぎていくということを言いたかったのだった。

例えばTwitter。目の前をタイムライン(TL)がどんどん流れていく。
Twitterは個人を容易くメディア化する。楽しみ方は人それぞれだろうが、僕はTLがただ流れていく様子を見るのが好きだ。
だからリストも作っていない。著名人も普通の人も、たったひとつのTweetとして流れていく。有名人だから大きく表示されるわけでもなく、フォロワーが多いからと言って流れずにTL上に残るわけでもない。

つい最近まで(多くの人々にとっては今も)、TVや新聞、雑誌が「メディア」だった。
しかし声を大にして言いたい。「TVも新聞も、馬鹿になるから見るな」と。

Twitterは、個人のメディア化、つまり世界は人間の数だけ多様であるということを可視化させる。メディアがパッケージである時代は終わりをむかえている。


日本はこれから、非常に困難な時代に突入していくだろう。
なぜなら、これまで「われわれ日本人は」、あまりにも自らで決めることなく、「メディア」や「世論」に委ねてきたからだ。
高度で周到に張り巡らされた何重もの(政治、経済問わず)シビリアン・コントロールの成れの果てが、この極東の島国だ。
自ら決めたことのない人間が、これからの自決の社会を生きることは非常に難しいということは、容易に想像がつく。
ましてその大勢の中で生きてきた50代以上の世代で、金融資産の80%超を保有しているとも言われるのだ。


現代は「変化の時代」と常々言われているが、主役が動かねば「変化の時代」は一向に来ないだろう。

では主役は誰なのか? 

そこに答えはある。
向かうべき世界が、そこにはある。


[image/air_ : 細越一平]








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