無料アクセス解析
  1. 無料アクセス解析

演奏の哲学 第1章 前提―20世紀、演奏の潮流8

2009年01月12日 01:00


 古楽を演奏する場合、演奏伝統は自筆譜と同様に、形成されゆく一つの構成因子となる。そしてどんな音楽も、何十年、何世紀の間に幾度も演奏され、やがて最終的な性格を含有する一つのフォルムを得る。このようにして成立したあらゆる演奏解釈は、お互いに影響しあい、一つの「正統的」なフォルムに集約され、今日ではもう避けて通ることができないものになっているのである(アーノンクールMD)。



 その文脈の中で、ベートーヴェンの音楽の伝統的解釈は正しい、とアーノンクールは述べる。
 何故ならば、ベートーヴェンの音楽は、他の歴史的な作品と比べてもほとんど例外的に初演以来絶えず演奏されてきたので、「その演奏の伝統は直接作曲家に遡ることができる」(アーノンクールMD)からである。
 
 もちろん伝統にのっとってベートーヴェンを演奏する際にも議論する点はある。
 例えば、アーノンクールは『交響曲第3番』を演奏するにあたり、ヨーロッパ室内楽団との録音で、モダン(現代)楽器のオーケストラで唯一、トランペットのみ無弁のナチュラル・トランペットを用いている。
 それは、「トランペットは単なる楽器ではなく、ある種のシンボルです――そして全てのファンファーレのモティーフで、そういった種類の響きが求められるのです」(”Beethoven’s music is language at every moment – A conversation between Nikolaus Harnoncourt and Harmut Krones”(アーノンクール指揮『ベートーヴェン交響曲全集』ブックレットより。和訳は筆者)といった理由からである。
 ベートーヴェンのトランペットの用い方については、何箇所か問題を孕んでいる。ベートーヴェン自身がトランペットのフレーズの中で、数か所不自然な形で音を抜いているところがあるのである。
 齋藤は『交響曲第9番』の終楽章についてこう語っている。
「第4楽章の出だしのところ。あの頃使っていたトランペットは出る音と出ない音があるんですね。ところがベートーヴェンはどうしたってその時トランペットの音が欲しいから(略)出る音だけ書いてあるんですよ。出ない音は書かないでいるわけです。ところが今は吹けるから全部吹くんですよ」(齋藤)。
 これがおおかた一般的になっていた解釈であった。3番にも音の欠落したフレーズがトランペットにあらわれ、現在ではフレーズ全てを吹くのが通例となっていた。
 しかしアーノンクールは、実際には当時のトランペットもフレーズの全ての音を出すことができたという歴史考証のもとに、それが英雄が失墜した様をあらわす、音楽の重要な声明であるとして、敢えて手を加えることはしなかった。
 9番の終楽章でも同様に楽譜への〈retouching〉は行っていない。ここにも、単に演奏の伝統を鵜呑みにしない姿勢が表れている。
 

 ただし、古典派以前の作品、とりわけバッハの作品への演奏解釈はベートーヴェンの様にはいかない。
 例えば先述した『マタイ受難曲』について考えてみれば、それはメンデルスゾーンの歴史的蘇演に演奏伝統の基盤を置いているのである。
 他の受難曲やオラトリオについても同様で、「(再びバッハが演奏されるようになった19世紀前半の)人々はバッハの音楽をバッハが演奏したように扱おうとは微塵も考えていなかった」(括弧内筆者)(アーノンクールMD)。
 バッハ演奏において現在の我々が拠っているのはそういった19世紀初期からの演奏伝統で、それが18世紀のライプツィヒのカントールへ直接繋がりようもないことは先に述べた点からも明らかであろう。
 ブゾーニやストコフスキー、レーガーらロマン主義の文脈にのっとったバッハ作品の編曲による受容を、アーノンクールは時代遅れのものとして却下する。
 立ち返るべきは「原典として作品そのものを受入れ、それを自らの責任において表現」(アーノンクールMD)する姿勢である。
 

 もうひとつ、古楽の特色について加えるならば、そこで用いられる楽器であろう。
 当初、古楽の存在理由はオリジナル楽器**にあるとされた。いうなれば、前提となるオリジナル楽器の使用とその音響によって、古楽はその時代性と真正性を付与されると考えられてきたのである。 
 けれども、音響の復元に重きを置く向きに対しては多くの批評がなされ、アーノンクールもそういった考えには同様に批判的なスタンスを取っている。
 実際彼自身、初期の古楽演奏に関して、「概して古楽においては根本的に下手な演奏がなされました。ぎこちなく味気ないのです」(アーノンクールMD)と回想している。
 それは、アドルノらが感じたことと同様であったが、事実1920~30年代の古楽(演奏家)はそういった閉鎖性と世界観***を持っていた。

 また、当時使用されたオリジナル楽器の理に適わない奏法と、余りにも貧相な音しかしないレプリカもまた、音響に対する誤った見方を助長することになった。
 1960年以降は、アーノンクールの強い影響力も伴って、古楽の歴史的思考はその音響的追求よりも、フレーズやアーティキレーション、和声の構造の研究や楽器に見合った奏法の獲得といった演奏習慣、ひいては語法の獲得に向かって行った****。
 そして現在では、アーノンクールが繰り返し説くところの、1800年以前の<言語としての音楽>を具現化するスタイルの探求が求められている。


 ここまで、作曲家―演奏者―聴衆という音楽の構図と、それがもたらす諸問題について俯瞰してきた。それは、歴史と闘ってきた演奏家の歴史でもあった。次章では、そこから軽やかに飛翔したひとりの演奏家について考えていく。


**「オリジナル楽器」=作曲当時に用いられていた楽器のことを指し、「ピリオド楽器」ともいう。この反対が「モダン楽器」、つまりは現在用いられている楽器である。けれども先述したように、現代で用いられている楽器のほとんどは19世紀後半には現在の形をとったものであり、そこにひとつの問題が生じているということは自明である。同様に、オリジナル楽器についても、それらは余りにも長く忘れられてきたため、形状はわかっていても奏法や音色についての土壌が失われている場合が多い。つまり、古楽器の形状や特色については例えばミヒャエル・プレトリウスの『楽器大全』のような書物で知ることができるが、それをどう吹けばどのような音が出るのかということで未だ謎に包まれている楽器があるということである。武久はこの点で、シャルマイという楽器の奏法について「問題はそれを扱う演奏者の中にどういう音のイメージがあるかであって、吹く人が現代人ならば結局は現代のイメージでやることになる」と述べている。

***アーノンクールはそれが「第1次世界大戦後の時代のユーゲント運動の目標」と関係していると述べ、その〈創成期〉の在り方がその後数十年に渡って、職業音楽家や職業批評家、そして聴衆の考え方に刻印を残しているとしている(アーノンクールMK)

****古楽の音響についての真正性、すなわちオーセンティティの問題は、その聴取の在り方も含めて現在では疑問がもたれている。それについては津上智美「2000年から見る古楽運動と真正性論争」に詳しい。


コメント

  1. 米さん | URL | -

    あーノンクールの英雄

    の解釈については私も読んだことがあり、久しぶりのその話題を目にして胸ときめく思いでした。

    古楽によるベートーヴェンの全集はブリュッヘン、ガーディナーのを持っています。でもモダン楽器のあーノンクールの録音が私は好きです。

  2. 米さん | URL | -

    ↑↑

    アーノンクールの「ア」の字がなぜか2回ともひらがな!!ごめんなさい!!

  3. chikap | URL | -

    Re: あーノンクールの英雄

    >米さん

    ブリュッヘンのベートーヴェンは聴きに行く機会がありました。
    すごく背が高くて猫背だったことが印象的です(笑

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://chikaplogic.blog63.fc2.com/tb.php/27-41ee5930
この記事へのトラックバック


最新記事